X1(CZ-800C)
X1シリーズ最初のモデル、いわゆる「マニアタイプ」です。銀色やグレーが光の加減で飛んでしまって白く見えるのではなく、また塗り替えたわけでもなく、そもそも白い「スノーホワイト」というカラーリングのものです。
X1の登場は、シャープ内部のお家事情など分からない中学・高校生の身ではそもそもの存在意義がよくわからず、でもそのスペックはMZファンとしても十分納得できるもので、近所の兄ちゃんが買ったという話を聞いては素直にうらやましいと思ったものです。
カラーバリエーションもそれまでになかった発想で、そもそも家電部門が作ったのだと後から聞いてなるほどと思ったものですが、同時に「どれかが売れなかったらどうなるんだろう?」と変な心配さえしたりしました。
というのも、ローズレッド(赤)・シルバー(銀)・スノーホワイト(白)というラインナップを見て、まず「白はないな」と思ったりしたからです。赤もびっくりだけど、銀が無難だろうと。
しかしご存じの通り赤に大変な人気が集まり、以後ノーマルX1はFまで、turboは初代モデルにまで赤が設定されます。それどころか周辺機器まで赤モデルが設定されたわけですから、どれだけすごかったかと想像されます。
逆に白は私の予想通り不人気色となり、本体とディスプレイテレビ以外に設定された製品はありません。ヤフオクなんかで見るとX1FやX1Gの赤や黒ではないモデルが白く見えますが、あれは白ではなくグレーです。X1turboで初めて設定されたところからの流れですね。
ところが、今になってX1のファンからはあれだけ不人気だった白が「美しい」と関心を持たれるようになっています。売れなかった分レアな存在になっていることもあるんでしょうが、一方でOh!MZ誌のYumi氏による連載エッセイ「霧降高原から」も影響しているのではないかと思います。少なくとも私がスノーホワイトを意識するようになったのはその記事以来です。
「霧降高原から」の第1回、「白いコンピュータ」が掲載されたのは1985年9月号。新宿のデパートで見かけた赤と白のパソコンに惹かれ、スキー場のロッジには同じパソコンのシルバーがあり、そしてついにどうしても傍らにそのパソコンを置きたくなり、それも取り寄せるまで日にちのかかる白にこだわり、ついに部屋に迎えたというお話です。発売から半年程度のことのようですが、売れ行きが鈍いのかスノーホワイトはメーカー取り寄せでしか手に入らなかったようですね。
X1シリーズの最初の製品、いわゆる「マニアタイプ」が発表された時、いろいろなことが衝撃的だったのですが、カラーリングというか「カラーバリエーション」があるのも驚きのひとつでした。ここはそれをお題にX1シリーズをメインとしたパソコンの「色」の話をしたいと思…ったのですがさすがに範囲が広すぎますので、いわゆる「カラバリ」についてX1シリーズがどう変遷したのか追ってみようと思います。
さて前述の通り、X1はローズレッド(赤)・シルバー(銀)・スノーホワイト(白)という3色のカラーバリエーションのある製品として発表されました。本体とキーボードはもとより、専用ディスプレイテレビまでその色で統一されたシステムは実にかっこよかったのです。
とはいえ…X1登場時カラバリがあったのは本体とディスプレイテレビだけでした。考えてみれば全ての周辺機器に同じカラバリを用意するのはかなりリスキーです。本体についてはひとつのチャレンジとして、もしかすると上層部から「ウチは家電なんだからカラバリあったっていいじゃん」などと指摘されたりなんかして設定することは比較的容易でしょうけど、採算についてさらに真面目に考える必要のある周辺機器ではリスクを負いたくないのが正直なところ。なので絞られた色とは…。
シルバーでした。これは多分最初の周辺機器総合カタログなのですが、その象徴となるモデルにシルバーが選ばれています。
おそらく、3色の中から選んだというよりは、元々シルバーしかなかったか、あるいは「これしか売れないだろう」という予想の元にシルバーを代表色と定めたのだろうと思われます。なぜシルバーなのか、というのはこのデジタルテロッパー(CZ-8DT)のカタログの背景に写るビデオデッキを見てもらえば分かると思います。当時のAV機器の主流となっていた色はシルバーだったのです。AV機器との融合を目指したX1ですから、その中で浮いた存在になっては困るわけで、一番ふさわしい色がシルバーということになるのは自然な流れでしょう。
そのため、FDDもプリンターもその他もみんな周辺機器はシルバー基調でデザインされました。これできっと周辺機器と共にX1を買ったユーザーの大多数はシルバーに統一されたシステムを揃えることになるはずです。
…しかしフタを開けてみると意外にもローズレッドに注目が集まり、またよく売れたために、本体は赤いのに周辺機器は銀というちぐはぐな組み合わせがあちこちで発生してしまいました。ちゃんとした数字を持ってるわけではないので想像の域を超えないのですが、おそらくローズレッドとシルバーはだいたい同じくらいの数の本体が出荷されているのではないかと思います。
ローズレッドが売れた理由は単なる物珍しさだけでなく、当時ブームを迎えていたラジカセのカラバリとして赤や黒があったことも影響していると思います。自動車なんかではよくありますが、カタログでイメージカラーを設定するとそればかり売れるというのと似てるかもしれません。先にオーディオなどで違和感を払拭してあったからこそのヒットではないでしょうか。
翌年のX1D/X1C発売時にはすっかりX1シリーズのイメージカラーとしてローズレッドが定着してしまったため、カタログでもそれを全面に押し出す形で編集されるようになっていきます。
そしてついに、周辺機器にもカラバリが導入されるに至ります。FDD、プリンタ、拡張I/Oボックスにローズレッドが設定されました。一方あまり売れてないデジタルテロッパーはコストの問題かシルバーのままとされています。
カラバリの波はX1用オプション以外にも及びます。CZ-140Dというディスプレイテレビは、当初シルバーのみの設定でしたが後にローズレッドも設定されるようになります。このディスプレイテレビ自体雑誌にも記事として掲載されなかったこともありよくわからない製品なのですが、おそらくX1専用ディスプレイテレビCZ-800DがパソコンもTVもビデオもつながるということで単体でよく売れてしまうため、X1以外では使えないスーパーインポーズ機能を除いてちょっと安くしたものを製品として出した…のではないかと考えています。それが、もしかしたら客などから「赤、ないの?」とか聞かれる例が増えたため、追加したんではないかと思われるのです。
カラバリ戦略という流れはX1turboにも引き継がれます。ただ少し違うのは、シルバーがなくなりオフィスグレーが設定されたことと、前面だけで見るとどちらの色でも黒い面積の方が広いということです。オフィスグレーというのはその名の通りビジネス用途でも違和感がないように配慮された色ということであり、400ライン表示と漢字VRAMにより日本語の表示や処理が容易になったことから用途を家庭用以外にも求めるようになった、という意味だと思います。
ですが黒の方が多いんじゃないかという前面デザインはどこからきたものなのか…。
想像の域を出ませんが、一つの理由として考えられるのは「FDDのベゼルが黒なのでそれを活かせるようデザインした」。TEACのFDDはMZ-1F07もそうですがベゼルの色は基本的に黒。FDDだけ黒いとバランス悪いのでその周囲も黒くした、というものなんですが…当時NECのPC-8801/9801で使われているドライブのベゼルはベージュばかりですし、シャープだってMZ-6500のは濃いグレーですから、X1turboだって黒以外選べるはず。とすれば純粋にデザインとして黒を使ったということなんでしょうか…。X1turboのオフィス志向はmodel40の登場でさらに鮮明化します。ついに全部オフィスグレーに染まってしまいました。オフィスには部分的な黒でも挑戦的すぎるということだったのでしょうか。
次いで登場したX1Fでも、カラバリ構成はローズレッドとオフィスグレーの二本立てになります。とはいえturboじゃないX1では力不足なのは否めませんので、オフィスグレーといっても色の名前でしかなくオフィスはどうでもよかったのかもしれません。
X1シリーズでも5インチFDD内蔵モデルが現れたのですが、大胆にもベゼルまで赤にして前面の上半分を赤とするデザインになりました。FDDが赤なのは後にも先にも、もしかしたら他メーカーの製品も含めてこれしかないんじゃないかと思います。
これだけカラバリ…それも赤をシンボルとして展開してきたのですが、次に登場したX1turboIIではなんとオフィスグレーのみの設定にしてしまいます。もう赤だから売れるという話ではなくなったんでしょうか?
見た目はX1turbo model40みたいな感じで、ほぼグレー一色になっています。前モデルのオフィスグレー、model40、そしてX1Fでの販売状況はグレー優位ということだったのかもしれません。
しかし、同時に「X1シリーズ3周年記念」としてブラックモデルの限定発売をアナウンスします。これはかっこいい!雑誌やカタログを見た人は一様に「これ欲しい!」と思ったのでしょう、黒ばかり売れていたようです。
その人気ぶりにシャープも限定の制約を取り払い、改めてブラックとオフィスグレーの二本立てに設定し直しました。黒が売れたのは伏線があって、やはりオーディオやビデオに黒が流行するようになっていた時勢だったということがあります。昔は銀で揃えた機材がもう黒で揃える時代だったというわけなのです。
ちょっと解せないのは、黒についてはそもそもX1turboで実験していたんじゃないのかということです。X1Fでも前面下部を黒にするなど、黒の時代の到来を十分認識していたような気もするのです。なのにあえて黒を外してくる作戦は考えにくい。とすると、黒モデルの限定販売はシャープの「仕掛け」だった可能性も出てきます。元々売る予定だったのだけれど、3周年記念ということで特別に、黒いのを限定と謳えばより注目されるのではないか…という企画です。
その裏付けとしては心許ないのですが、実は周辺機器について、グレーの設定はほとんどなく黒ばっかりなのです。このパンフにしても、プリンタ・HDD・カラーイメージボード(の外付けユニット)など全て黒しかありません。さらにはプリンタもX1turboII発売半年前には真っ黒な製品が登場しています。ですから、本体がオフィスグレーしかないというのはバランスの悪い話であり、もしグレーがメインの色ならば初代X1の時みたいにグレーの周辺機器だらけになっていて不思議はないのです。
以降のモデルはブラックをメインに据えて展開されていきます。例外はX68000で、これだけはなぜか初代ではグレーしか設定されず、ブラックは半年以上遅れて発売された他、EXPERT II・PRO IIの時代までグレーとブラックが平等な感じで扱われていきます。もっとも初代についてはいずれブラックが発売されると確信する材料がありました。それはX1turboZ用ディスプレイテレビとしてCZ-600Dが指定されており、こちらは本体との組み合わせ上ブラックもあったのと、X68000発売約2ヶ月後(1987年5月)のマイコンショウのシャープブースに黒モデルが展示されていたからです。
以後どのモデルもオフィスグレーとブラックの二本立てになっていましたが、やはり黒の時代なのかグレーの売れ行きが芳しくないとみえ、X1twin・X1turboZII・X68000SUPERの代からブラック(SUPERはチタンブラック)のみになりました。コストダウンの必要もあったのでしょうが、カラバリという戦略が力を持たなくなったのがこの時期からなのでしょうね。オーディオ機器を見るとゴールドと黒というバリエーションが残ってはいましたが、ゴールドはハイソ向け・黒はカジュアル向けみたいに購買層がはっきり分かれていて、X1マニアタイプの時代のようにカジュアル層がそれぞれの好みで色を選ぶ雰囲気ではなくなっていたように思います。
最後に、X1シリーズでカラーバリエーションの存在した本体と周辺機器(モニタ関連と本体添付機器は除く、だって本体についてまわるので)のバリエーション一覧を表にしておきます。カラバリの存在した周辺機器の少なさが、パソコン事業でのカラバリ戦略の難しさを表していると思います。
| 品名 | 赤 | 銀 | 白 | 灰 | 黒 | 備考 |
| 本体 | ||||||
| X1 | − | − | ||||
| X1C | − | − | − | |||
| X1D | − | − | − | |||
| X1Cs | − | − | − | |||
| X1Ck | − | − | − | |||
| X1F | − | − | − | |||
| X1G | − | − | − | |||
| X1twin | − | − | − | − | ||
| X1turbo | − | − | − | |||
| X1turboII | − | − | − | |||
| X1turboIII | − | − | − | |||
| X1turboZ | − | − | − | |||
| X1turboZII | − | − | − | − | ||
| X1turboZIII | − | − | − | − | ||
| X68000 | − | − | − | |||
| X68000ACE | − | − | − | |||
| X68000EXPERT | − | − | − | |||
| X68000PRO | − | − | − | |||
| X68000EXPERT II | − | − | − | |||
| X68000PRO II | − | − | − | |||
| X68000SUPER | − | − | − | − | ||
| X68000XVI | − | − | − | − | ||
| X68000XVIcompact | − | − | − | − | ||
| X68030 | − | − | − | − | ||
| X68030compact | − | − | − | − | ||
| 周辺機器(モニタ・本体添付関連除く) | ||||||
| CZ-800P | − | − | − | ドットプリンタ | ||
| CZ-801F | − | − | − | ミニフロッピーディスクドライブ | ||
| CZ-300F | − | − | − | コンパクトフロッピーディスクドライブ | ||
| CZ-31F | − | − | − | 増設用コンパクトフロッピーディスクドライブ | ||
| CZ-81EB | − | − | − | 拡張I/Oボックス | ||
| CZ-80PK | − | − | − | 漢字プリンタ | ||
| CZ-81P | − | − | − | カラープロッタプリンタ | ||
| CZ-8PP2 | − | − | − | カラープロッタプリンタ | ||
| CZ-8PD2 | − | − | − | ドットプリンタ | ||
| CZ-52F | − | − | − | 増設用ミニフロッピーディスクドライブ(X1F用) | ||
| CZ-6VT1 | − | − | − | カラーイメージユニット | ||
| CZ-6EB1 | − | − | − | 拡張I/Oボックス | ||
| CZ-6TU | − | − | − | RGBシステムチューナ | ||
| CZ-8PC4 | − | − | − | 熱転写カラープリンタ | ||
ネタ的に前後しますが、初代X1がどのように開発されたのかおぼろげながらわかってきました。ここでは調査にもとづき、現時点でわかっていることと推測していることを一連のストーリーとしてまとめてみました。主な資料は次のとおりです。
いわゆる「提灯記事」の一種ですが、記事の体裁を取りつつその実態は広告です(新聞なんかにもありますよね)。広告なので、目次には出てきません。国立国会図書館のデジタルコレクションに収録されているものはOCRにてテキスト化されているので検索して発見できました。X1が発売されてひと月半しか経っておらず、かなり生々しく新商品を語っています。
アスキー誌の名物記事、LOAD TESTのX1の回です。終わりの方に開発者インタビューが掲載されています。
「新商品にかけた発想のノウハウ」として、ヒット商品をどのように考えて生み出したのかの例の一つに取り上げられたものです。X1がヒットして注文に生産が追いつかないと紹介されているのですが、それをキャプションとしている写真はMZ-2000のエージング工程を写したものだったりします。
パソコンの黎明期から普及期に至る、多数のメーカーに在籍した関係者にインタビューした内容をまとめたものです。とかくこの手の本はNECのTK-80〜PC-8001に関係した事柄だけを書いて「パソコンの歴史でござい」とやりがちですが、NECに対抗したメーカーや、ソフトや周辺機器のメーカーの関係者にも話を聞くなどパソコン市場の広がりをしっかり捉えた書籍としてよく書けていると思います。残念なのは、聞き取った話を咀嚼しきれてないのかところどころおかしな記述があり、すんなり信用しきれないところですね。
元ハドソン、ではなくハドソン関係者である岩崎氏による、旧ハドソン在籍および関係者にインタビューしまくって「ハドソンは何を作ってきたのか」をつまびらかにしようという同人誌です。基本的にはファミコン〜PC-FXまで(予定)の時代のプロダクトについて、誰の制作でどんなエピソードがあったのかを丁寧にまとめているのですが、このZEROはハドソン創業期からX1の開発に関係しファミコンソフトに参入するまでが書かれています。
悩ましいのが、それぞれの資料で言ってることがバラバラだったりするということで…ハドソン伝説ZEROはハドソン関係者からの聞き取りのみなのでハドソンから見た話しかないのは当然として、シャープの人間から聞いた話さえ雑誌記事では揺らぎがあるのです。
アスキー誌と実業の日本誌では81年10月が開発の始まりと読めるのに、文春誌ではそれ以前の活動についての記述がある…それぞれの記事の間に、対外的な説明をどうするかの調整を行って81年10月以前については伏せることにしたのかもしれません。
450プロジェクト
1981年の4月か5月頃、当時の電子機器事業本部本部長で常務取締役に就任した辻晴雄氏が、極秘裏に「450プロジェクト」というチームを発足させました。リーダーには電子機器研究所・第1開発部部長の上野敦氏を指名しました(「450」とはリーダーの上野氏の氏名コード(従業員番号?)から取られたものらしい)。研究所とありますが天理の研究所(本社)ではなく、電子機器事業本部に設置したローカルなもののようです。
450プロジェクトは事業本部内から横断的に人選されており、電子機器研究所 第1開発部、テレビ事業部 第1技術部、テレビ事業部 第4商品企画部、特需部から7〜10人がメンバーとなりました。後に人員の数はかなり増えたとのことですが、X68k時代に各雑誌に登場して有名になった鳥居勉氏はテレビ事業部 第4商品企画部の所属で、おそらく発足当初からのメンバーではないかと思われます。
当時パソコンの需要が高まりつつあり、これを商機として新しいものを作れないかということを検討するのが450プロジェクトの目的でした。テレビの販売は順調で、家庭用ビデオデッキも好調で二本目の柱として十分期待できる成長を示していましたが、さらにここに三本目の柱になるものを産み出したいと辻氏は考えていました。ただ最初から具体的な製品を想定していたわけではなく、市場調査を通じて可能性のあるものを提案することがミッションとなっていました。
450プロジェクトの提案から生まれた製品ではないかと推測しているのが、81年8月頃から発売を始めた他社製パソコン向けディスプレイ製品です。NECなどテレビ製品を作っている家電部門を持つコンピュータメーカーでは以前から専用CRTモニタを家電部門が担当しており、シャープもオフコン用CRTはテレビ事業部が担当していたと思われます。回路的には家庭用テレビからチューナー部を取り払えばRGB入力のCRTディスプレイになるわけで、同期周波数の調整は必要でしょうがそれを含めても家電部門なら何も難しいものはありませんよね。これを一般家庭向けに発売したわけです。この製品群は、後にPC-9801用の安価なモニタとして各ショップのセット販売品として重宝されることになります。
パソコン広場
シャープには前年度良い成績を収めた事業本部に「シャープ大賞」を贈るという制度があり(今でもあるかは不明)、1980年度のシャープ大賞に電子機器事業本部が選ばれました。だいたい6月頃のようで、シャープ大賞に選ばれると報奨金(100万円とか?)が対象の事業本部に授与されます。
この報奨金について、若手から「パソコンを買ってほしい」という要望があり、事業本部内に「パソコン広場」が設けられることになりました。パソコンで仕事をする時代ではないので、純粋に福利厚生、遊び場ということになります。
やがてパソコン広場で遊んだ社員の中から、そのパソコンに対する不満とメーカー従業員ならではの思いを抱く者が現れ、こんな台詞を吐くようになりました。
媒体によって微妙に言ってることが違いますが、いずれにせよパソコン広場から出てきた言葉であり、重要なのが「一つにしたもの」「一緒に映せる」とは単にテレビチューナー付きRGBディスプレイとしてパソコンモード・TVモード切り替え機能があるということではなく、パソコンとTV画面を合成すること…つまりスーパーインポーズ機能を備えたパソコンとディスプレイテレビがあるといいのではないか、というアイデアがこの時点で出てきていることです。
同時にこれを実現するためにはディスプレイ製品だけを作っていてもダメで、パソコン側も対応した回路を備えている必要があり、つまりはテレビ事業部がそういうパソコンを作らなければならないことも明らかでした。
こうして、X1につながるパソコン開発計画が生まれたのです。
ビジュアル・インテグレーション
辻晴雄氏はかねてから、テレビにあらゆる映像情報製品がつながっていくという流れが業界にできてくるのではないかと考えていたようです。考えてみればテレビにビデオデッキがつながり、ビデオカメラがつながり、ビデオディスクプレーヤー(シャープはVHD陣営)がつながり…とテレビを中心としたシステム化の時代は目の前に来ているようでもありました。またキャプテンシステムなどの「ニューメディア」に対応した製品がいよいよその姿を現そうとしていた時期でもあります。
当時はまだまだテレビがお茶の間にだけあって、テレビ番組を見るにはお茶の間に行くしかなく、自然とテレビ視聴は家族団らんと合わさっていた時代でした(それゆえプロ野球が嫌いになったりチャンネル争いで不幸な事件が起きたりしたのですが)。つまりテレビが家の中心にあるとするなら、テレビをおさえることは家中の家電を従えることにつながるのではないかという思惑もあったのかもしれません。
そこで辻氏は「ビジュアル・インテグレーション(VI)」という言葉を創造して事業本部の戦略方針に加えます。そんな折り、450プロジェクトからパソコン開発の提案が出てきたのです。もちろん辻氏はこれを歓迎します。
専用のテレビと組み合わされるパソコンは、VI戦略に照らせばまさにそれを体現する製品となります。パソコンの常識ではCRTディスプレイはパソコンの周辺機器であり、予算に合わせて性能を妥協するなどしわ寄せされるのが常でした。しかしVIではそれが逆になり、パソコンがテレビの周辺機器になるわけです。
昔から、いずれ一般家庭に「ホームコンピュータ」が置かれ、ホームコンピュータを中心にホームオートメーション環境が実現すると考えられてきました。1980年代前半のパソコンブームは(まだホームオートメーションの中心を担える実力などないとは言え)いかにしてホームコンピュータとして家庭に導入されるかの始まりといった雰囲気がありました。パソコンがテレビの周辺機器となるというのは、その突破口になるということなのでしょう。
この戦略方針が、思わぬ所で助けになります。ちょうどこの頃懸案になっていた社内事情の影響を最小限にしたと考えられるのです。
その社内事情とは、あまりにMZシリーズが売れすぎて「なぜ本来業務がコンピュータ開発ではない部品事業部がコンピュータを作って売っているのか」という問題が取り沙汰されていたことでした。パソコン開発は電卓事業部が業務向けを担っておりホビー向けのMZと棲み分けてきたのですが、MZユーザーが業務用途にも広がって電卓事業部のパソコン(この当時はPC-3200Sが現行機種)を差し置いて売れるようになっていました。電卓事業部からすれば部品事業部が事業領域を侵犯しているというわけです。
こういう状況でいくら自主的判断で一般向けの商品を売って良い事業部制だとしても、またパソコンを作る部署が増えることが歓迎されるはずがありません。しかしVIは、テレビ事業部がパソコンを作る必然性を訴える背景として重要な役割を果たせます。テレビの周辺機器としてのパソコンは、テレビ屋にしか作れないというわけです。
これが功を奏したか、新設されるパソコン事業部にMZが移管される一方、テレビ事業部のパソコン開発計画はそのまま承認される運びとなりました。パソコン事業部が全社的なパソコン事業のとりまとめをすることになったようですが、テレビ事業部からは他部門との橋渡しに便宜を図ってもらえるようになったぐらいで開発そのものの自主性にまで制約が課されることはなかったようです。
ハドソンの参画
パソコン事業部の発足と同時ぐらいに正式にスタートしたテレビ事業部のパソコン開発計画ですが、それよりずっと前から事業部内では開発するパソコンの仕様を検討していたようです。
組込みマイコンレベルのプログラムならともかく、BASICインタプリタのような大規模ソフトの開発など未経験なので、素直に外部の力を借りることにしました。それがハドソンソフトです。ハドソンは1981年5月にオリジナルのBASICインタプリタ「HuBASIC」を発表・発売しており、その能力を見込んで上野氏とその部下である石持春樹氏が六本木にあったハドソン東京事務所を訪れ開発を依頼します。ハドソン関係者の記憶によると春から夏の頃らしく、前述の経緯からして6〜7月ぐらいの話と思われます。
ハドソンからは中本伸一氏(HuBASICメイン)、本迫芳夫氏(HuBASICサブ)、岡田節男氏(ハード)が担当することとなり、11月頃に実際の開発がスタートしました(岡田氏が82年5月正式入社で、当時半年前から試用期間として勤務する慣例になっていたことからの推定)。最初の打合せに行ってみると専用のテレビがあって制御できる、エンタメ側に振るという方向性以外何も決まっておらず、図らずも仕様提案会議のようになってしまったようです。「ゲームを作るならPCGがいりますよね、あとパレットがあると便利ですよね」と岡田氏が話すとシャープの人は大喜びしていたとか。
以後、ソフトの開発はハドソン東京事務所で、ハードは矢板のテレビ事業部で進められました。開発版のBASICは2〜3日おきに入社間もない高橋利幸氏(後の高橋名人)が大型バイクを駆って届けられました。またBASICだけでなくサブCPUのソフトもハドソンが担当しました。
シャープ側のハード担当は山村喜美夫氏(後にハドソンに転職)で、ハドソンの岡田氏と協力して一畳ほどのブレッドボードに次々と回路を作り、ソフト担当がそれをテストするというスタイルになっていました。たびたび徹夜になり、労組のチェックから逃れるために本部長室を借りて目張りし、そこで作業を続けたりしたそうです。
そんなわけで、パソコンの基本機能についてはハドソンがかなり主体的に作り上げたと捉えて良いのだと思われます。X1の仕様について、
がMZ-2000とよく似ている…というか開発のタイミングとしてはMZ-80Bの方が適切ですが、明らかにお手本にしたとしか考えられないほどなのは「実はテレビ事業部のメンバーがMZ大好きだった」のではなくて、MZをベースにコンピュータのアレコレを考えるのが自然な姿になっているハドソンのメンバーが深く関係していたからなんですね。だって、諸刃の剣であるクリーン構成をわざわざ採用する理由はないじゃないですか。他メーカーのようにROM BASICが起動して不思議はないのに敢えてクリーン構成にしているのは、ハドソンがクリーン構成に思い入れがあったからなのです。
スーパーインポーズ
当初から目玉とされつつ、難易度が高いと見積もられていたスーパーインポーズ機能は、石持氏が担当していました。実際開発は難航したのですが、気分転換にシーズン終了間際(栃木近辺なのでおそらく82年のGWと思われる)のスキー場に出かけた際、2本のリフトが時々重なり合うのを見て解決の糸口を掴んだとされています。
テレビ画面とパソコンの画面を合成して表示するには双方の信号を同期して、同じタイミングで画像情報を送り出す必要がありますが、テレビ放送のNTSCは規格になっているし、パソコン側はこれから作るのだから合わせるのがそんなに難しいとは思えません。いったいどこにそんなポイントがあったのか…。
同期の取り方については技術報告書に簡単な説明があるのですが、そこから想像するに、テレビ側の信号はNTSC規格と言えどあまり当てにならないという現実があったのではないかと考えられます。パルスの幅が仕様を逸脱して短すぎたり長すぎたり、時々欠けているとか余計なのがあるとか…各メーカーのビデオ機器をそれぞれ比べても揺らぎがあるだけではなく、実は放送局の送出する信号もかなりいいかげんだったりするんじゃないでしょうか。テレビはそのいいかげんな信号が来てもがんばって合わせているということを知っていれば、スーパーインポーズは容易ではないと考えるでしょう。
しかもテレビ側の信号はパソコンの制御下にないわけですから、仕組みとしてはパソコンがテレビに合わせていくしかありません。基準として当てにならないのに合わせなければならない…そのためにはパソコン側の信号を柔軟に変化させないといけなくなるのですが、それはあまりに複雑すぎる…。
そこでパソコン側の信号周期をテレビのものより短くして、入力されるテレビ側の信号に追従するようパソコン側の信号を引き延ばすようにしました。つまり補正は伸ばす方向のみとして、縮めることを不要にしたのです。
そしてようやく、1982年6月末に試作機が完成しました。
量産、その後
辻氏は文春の記事にて「このかげには、産業機器事業本部、電子部品事業本部や技術本部などの助言、協力が大だった」と量産開始から販売までの自部門以外の貢献を語っています。産業機器事業本部にはパソコン事業部があり、電子部品事業本部にはZ80などを生産している半導体応用事業部があり、技術本部は量産についてのノウハウがあります。巷で言われていたほどの部門間対立などはなく、特にパソコン事業部発足以降はこういった協力体制が作られることになったのだろうと思われます。
1982年10月14日に新製品発表、11月16日に発売が開始されました。家電製品らしく型番の他に「X1」というブランド名が付けられたのですが、これは最後までいい名前が思いつかず開発時の仮名がそのまま付けられたというのは有名なエピソードです。
X1は発売後二ヶ月足らずで予定の月産一万台に到達、その後も注文に生産が追いつかない状態がしばらく続いたとされています。このヒットに困ったのが他メーカーで、特にX1のスーパーインポーズ機能が注目を集めたがゆえにこれを選定基準に考える購買予定者が続出したのです。
確かにスーパーインポーズは面白い機能ですが、ビデオ編集でテロップを入れたい人以外に使い続ける人は現実には少ないと容易に想像でき、使わないとわかっている機能のために苦労して搭載した上に販売価格がアップするとか迷惑なことこの上ありません。そうは言っても無視もできないので、一部のメーカーではスーパーインポーズ機能を搭載した製品が登場することになりました。その姿も濃淡さまざまで、松下のJR-300のようにX1をお手本にしたようなものもあれば、NECのPC-6001mkIIのように専用端子に接続するオプションを用意するものもありました。
ハドソンではソフト開発の標準機がX1となり、CP/Mが移植され(シャープ純正品として発売されたCP/Mとの関連性は不明)、開発に用いられるようになりました。SASI I/Fも自作して(シャープ純正HDD付属I/Fとの関連性は不明)HDD環境で運用されていたそうです。まずX1用にソフトを開発して、他の機種にはX1互換ライブラリを用意してZ80系なら半日、6809機にはソースコンバータを通して1日程度で移植できたとのこと。
そしてハドソンはこの縁がもとでファミリーコンピュータ用BASIC「ファミリーベーシック」の開発を請け負うことになり、さらにこの開発がきっかけになってファミコン用ソフトのサードパーティー第1号となり、後の飛躍に繋がっていったのです。
残る謎
というわけでいろいろな資料からシャープ側の初代X1開発の事情がわかってきたのですが、それでもいくつか謎が残っています。
ひとつはハドソンを選んだ理由です。BASICの開発にあたり、マイクロソフトに頼むのでなければハドソンぐらいしか選択肢がなかった(ハドソン以外に見つけられなかった)ということなのかもしれませんが、他にもBASICインタプリタを開発する実力のある会社がなかったわけではありません。
同時期にソニーが初のパソコン製品であるSMC-70の開発に取りかかっていて、同様にBASICを外注することになり、アスキー誌の編集長だった吉崎氏にBUG(現DMG-MORI Digital)を紹介されたのです。ハドソンと同じ札幌の会社で先輩格となりますが、それだけにここがその後の歴史を決定づけた瞬間だったのだろうと思わずにいられません。もしソニーが吉崎氏の力を借りずハドソンを見つけていたり、吉崎氏がハドソンを紹介したりしていたら? 調査に出かけたどこかの展示会でシャープがBUGと出会っていたら?
それにしても、ソニーにしてもシャープにしても、BASICの委託先にマイクロソフトを選ばなかったのが面白いですね。餅は餅屋、つまり大規模ソフトの開発に長けた会社に依頼するという方針なのに一番の餅屋に頼まなかったわけですから…。
謎の二つ目は周辺機器について。テレビ事業部も昔からいろんなオプション製品を作っていたでしょうから、小さめの箱に収まっているRFビデオコンバータとかFDDとかデジタルテロッパとか、多分付き合いのある協力会社に設計や量産などを委託したりしていたと思いますが、おそらくそういう関係になかったアイ・オー・データ機器といつから協力関係になったのか、委託先として先に見つけたのはシャープとハドソンのどちらなのか、気になるのです(マニアックな視点ですが)。
例えば純正の漢字ROMボードであるCZ-8KRはPIO-3055とほぼ同じ回路(追加ROM/RAM用ソケットが2つ多い)ですし、EMMと呼ばれる外部RAMボードのCZ-8EMはPIO-3034とほぼ同じでPIO-4034としてアイ・オー・データ機器でも販売していますが、これらは皆HuBASICが最初からサポートしています。ですから、それなりに早い時期から設計情報が開示されていたはずなのです。
EMMと漢字ROMボードはMZ-80B/2000用HuBASIC V2.0でもサポートされており、そのことが1982年8月号の雑誌広告にて予告されています。もっともこの時外部メモリはRAMディスクではなく128KB単位のバンクメモリ(最大4MB)とされていて、「ディスク・ディメンジョン」という名称でそこに配列変数を確保する機能として紹介されています。これは後にturbo BASICやZ-BASICで使えるようになったVDIM命令(GRAMやバンクメモリに配列を確保する)と同等の機能だと思われます。
実はVDIM命令の予約語だけはCZ-8CB01の時から存在していたのですが、だからといってディスク・ディメンジョンがVDIM命令で使えたとも限りませんけど、ある時期まではMZ用だけでなくX1用まで外部メモリの仕様がRAMディスクではなくディスク・ディメンジョンだった可能性はあります。
MZ用ボードが雑誌広告に現れたのはPIO-3034が82年4月号、PIO-3055が同8月号。X1試作機の完成前だったり、ソフトの調整が終わっていない時期だと思われますので、どちらもHuBASICのために製品化されたものと推測されますし、X1と同等の環境を構築できるようあらかじめ相談してあったのでしょう。
というわけで、総合するとBASIC開発の初期段階からアイ・オー・データ機器がX1開発プロジェクトに関わっていたと考えられるわけです。プロジェクト全体に対する貢献度の割合的なことも気になるんですよね…。
他には、上記のカラバリやデザインについてどう検討して決まったのかの情報がありませんね。正面から見てディスプレイテレビ・本体・キーボードの幅が揃ってるだけでなく、周辺機器も含めて幅・奥行きが揃えられていたのもコンセプトの強さを感じさせます。最近はシャープのデザイン部門がいろいろ発信されていたりしますし、それ以外にももっといろんな情報が得られることを期待しましょう。