下津井電鉄の電車についての略解


 本稿は「台車から見た下津井電鉄の車輌」の附録として岡山大学鉄道研究会会誌”FIELD TAPPER”1997年10月号(創刊第2号)誌上にて私が発表した原稿を元に、その後、色々手直しを加えた物である。


新製車グループ


モハ101-クハ21

 1951年に日立製作所笠戸工場で製造された、下津井電鉄初の新造電車である。

 この頃、大幅な国家予算削減を断行したドッジ・ライン等の影響で国鉄からの発注が激減した事で日立製作所は新規市場開拓を迫られる様になった。そのため、この時期の同社は京王帝都電鉄等の従来からの大手私鉄顧客のみならず、それまで取引の全くなかった地方の中小私鉄に対しても非常に精力的に営業活動を行っており、下津井の近隣では備南電鉄(後の玉野市交通局線)モハ101〜103(但しこの車輛自体は未成に終わった蔵王高速電鉄(山形県)の発注車であった可能性が高い由である)や、高松琴平電鉄(奇しくも玉野市交通局線の電化廃止に伴うモハ101〜103の売却先である)10000形1001+1002等の売り込みに成功している。

 それらと同様に、これまで皆目ご縁の無かったこの下津井電鉄に対しても激しい売り込み攻勢があったらしく、初の新造電車として電動車と制御車を各1両同社から購入することが決定された。

 これらはさすがに名門メーカーの製品だけあって洗練された設計となっており、前記二形式や同時期の国鉄車とも共通する、張り上げ屋根に二段上昇式の窓を備えた明朗なデザインを備えた車体デザインはコンパクトながら綺麗にまとまっていた。また、気動車改造電車で採用していたウェスティングハウス社系のHL制御器と呼ばれる手動で順次ノッチ進段を行う単純なタイプの制御器ではなく、より進歩した日立オリジナルのMMC電動カム軸式多段自動加速制御器を採用するなど、その設計にはややもすると地方の田舎電車にはオーバースペックな、当時の大手私鉄向け電車に匹敵する精緻な機構が搭載されており、単純に糊口を凌ぐためだけの余技とは到底言い難いものがあった。

 だが、他社向けはともかくとして、こと下津井向けに関してはこれらの意欲的な設計は完全に裏目に出てしまった。

 張り上げ屋根や雨樋の埋め込みといったデザインに配慮した部分は、質実剛健を旨とする下津井ではどうも扱いかねたらしく後年実を取って雨樋の露出工事が実施されているし、売り物の自動加速制御器もわずか1編成2輛では他車との併結運転時に不便な上、単純なHLに比べて取り扱いが面倒とあって運転側からも整備側からも嫌われてしまったから、この車輛は結局の所予備車以上の扱いを受ける事はなく、景気の回復に伴って湘南電車(80系電車)をはじめとする国鉄車の受注が再開された事で日立側の受注意欲が低下した事もあってか、以後下津井電鉄が日立製作所に対して車輌発注を行う事はなかった。

 ただ、基本的なレイアウト自体は気動車改造のモハと変わらず、それらの鮮魚台を外したのとほぼ同寸にまとめられており、電動車が両運転台で制御車が片運転台である事も同様であった(但し、後年モハは片運転台化された)事を考えると、制御器さえHLであればこれは充分使える車輌だったのではないだろうか。

 この頃の日立製地方私鉄向け電車は皆、日立独自の多段自動加速制御器を搭載して出荷された様だが、新規開業や電化に伴う新製で他に電車がなかった備南や十和田のようなケースを別にすれば、その多くが複雑で在来車と互換性の無い制御器を持て余した末に不遇の一生を終えており、その事が示す様に必ずしも新設計の機構が良い結果を生む訳ではないのである。

 当系列はクリームとマルーンの二色塗り分けで登場し、モハ103登場後はスカーレットと白の新二色塗り分けに変更されていて、この塗り替えの頃にモハの片運転台化と各車の連結面側の貫通路設置が実施された様だ。

 廃車は1973年に入ってからで、路線短縮時に一旦下津井車庫に押し込まれた後、同車庫の一部自動車ガレージ化(1972年7月)に伴い、全線の一閉塞化で廃止扱いになった備前赤崎の側線にサハ1やモハ52と共に移されてしばらく留置された(この事実から考えるに、やはりモハ1001にはモハ52の台車は転用されていないのであろう)後、再度下津井車庫に回送されてそこで解体されている。


モハ102-クハ22 クハ23→モハ1001

モハ102 サハ2を含む3連としては最終期の姿。サハ2と前後の2輛で塗り分けラインや床面高さが異なる。

クハ22 やはり最晩年の姿。スポーク車輪である事が判る。

モハ102の前面。軌間の関係からどうしてもアンバランスになってしまうが、なかなか端正な造作である。
運転台の換気のため、左側の窓下部が前方へ引き出されている事とワイパーが喪われている事に注意。
また、台車枠の端梁(車輪を隠すバンパーの様に見える両端が曲げられた横棒)中央に2本のコイルバネ
が置かれ、これに22kwモーターが「吊り掛け」られている事にもご注目頂きたい。カハ50の電車化改造時
に台車枠にわざわざ軸受部の補強工事までして端梁を追加したのは、そうしないとこのように主電動機を
装架出来なかったためで、同様に気動車の電車化改造を行った栃尾鉄道が台車への主電動機装架を素
直に諦めて車体装架式の主電動機→ユニバーサルジョイント→ギアボックスという気動車時代の駆動系
を流用する構成としていたのも、この種の工事の手間があまりに大変であった事に原因の一端があった。

モハ1001(元クハ23)の前面。非常直通ブレーキの空気管が用意されておらず、総括制御用ジャンパ栓も設置
されていないため他編成との連結運転は基本的に出来ない。つまり貨車牽引時は事実上この車輛のブレーキ
力だけが頼りだった訳である。また原型を保つモハ102と異なり縦の雨樋が外付けに改造されている事が判る。


 1954年にナニワ工機(アルナ工機へ改名後、アルナ車両へ改組)で製造された両運転台の電動車および同系の車体を持つ片運転台の制御車のペアと、同年にそれらと同仕様の車体を帝国車輌(後に東急車輌製造へ合併)で製作した片運転台の制御車の合わせて3輛よりなるグループである。

 奈良電鉄(現近鉄京都線)デハボ1200,1350や遠州鉄道モハ21、あるいは栗原電鉄M151等といった、この頃のナニワ工機の中小私鉄向けスタンダードデザイングループとでも言うべき一連のシリーズに共通する、上段Hゴム固定の二段上昇式側窓が印象的な車体デザインを備え、軽便電車というには大柄でやや堂々とし過ぎているものの非常に均整のとれたフォルムを持つこのグループはそれ故に模型ファンに愛好され、「鉄道模型趣味」誌の別冊「スタイルブック」に同期の兄弟とでも言うべき奈良電鉄デハボ1200と共に図面が掲載されたばかりか、後年今は亡きしなのマイクロ(ぷろじぇくとはちまる)から1/80の鉄道模型として製品化されさえしたという経歴を持っている。

 同一ロット、それもたった3輌しか製造しないのにメーカーが2社に分かれた理由は不明(例えば同じ時期の井笠ホジ1〜3の場合は、開業以来つきあいの長い日本車輌と新参の富士重工による純粋な競争入札であった事が知られているが、戦前の蒸気機関車や気動車を見ても分かる通り下津井はメーカー選定についてかなり慎重な方であり、同一車種ならば同じメーカーで量産した方がコスト的に有利である事を考慮すると、単純な競争入札でモハ+クハとクハの2社に分けたとは考えがたい)であるが、このグループが製造された1954年には同じく762mm軌間の三重交通三重・北勢線向けとして同様の設計様式・手法(バス窓でウィンドウシルの付いた軽量構造の半鋼製車体となっており、雨樋の位置や車体長を除けば構造的にモハ102・クハ22・23の姉妹車と言って良い)を用いた付随車(サ361〜368)がやはりナニワ工機と帝国車輌のコンビで、それも同じ年に4輛ずつ2回に分けて発注された合計8輛の同型車を両社が各回2輌ずつ分担して全くの同一設計で製造している(このためナニワ工機製はサ361・362・365・366、帝国車輛製はサ363・364・367・368となっているが、外観からは区別が付かない)事や、あの大阪市電を代表する名車3001形の3001〜3030も1956年にこの2社が分担して製造を行っている事等から、少なくともこの時期、両社の間で近隣の中規模車輌メーカー同士という事でこういった車輌の受注・製造について何らかの分担あるいは協力関係(両社の工場規模から考えて、納期短縮に有効な手段である)があった可能性が高いと考えられる。

 何より、このグループに用いられた設計手法は明らかにこの時期のナニワ工機独特のものであり、帝国車輌がナニワ工機と分担した車輌以外には同様式の車輌を製作していない事はこの件について考察する手がかりとなろう。

 このグループは既存のモハ50と同クラスの全長(約13m)だが、モハ50で荷台となっている部分にも車体が伸ばされ、その最大乗客収容力はかなり大きくなっている。

 当グループと、その増備車であるモハ103+クハ24は軽便鉄道向けの車輌定規をほぼ限界一杯まで生かしたサイズであり、これより僅かに長い車体を持つ越後交通栃尾線モハ212〜217等と共に、1977年の近畿日本鉄道モ270・ク170形(設計技術や工作技術の進歩による軽量化で車体長15m強を実現)登場まで日本本土の762mm軌間軽便鉄道向け電車として最大級を誇っていた。

 この時期にモハ1輛に対してクハが2輛製造されたのは、電動車が比較的多数(この時点で7輛)在籍していたのに対し、輸送需要を考えるとその倍はあってもおかしくはない制御車が運用に制限のあるクハ21やクハ9を含めても6輛しかなく、輸送力確保と総括制御の両立を図ってモハ+クハ+クハで運行すると2本しか編成が組めず、残るモハ50形4両は貨車牽引に1両を充当し、1両をクハと組ませるとしても、2両について非電化時代の遺物である木造客車の付け替え作業を両端駅で強いられていた状況を改善するためと考えられる。

 それ故、クハ23については翌年改軌した栗原電鉄からやって来たサハ1等と共に既存の気動車改造電車と組んで運行される事が多かった様である。

 これに対し、モハ102-クハ22のペアは途中で栗原よりの転入車であるサハ3を組み込みつつ常にワンセットで(但し、検査の都合等でそれぞれ他形式と組んだ場合もあった様で、更に観光シーズンなどの多客期には当グループによる整った3連も組まれており、この辺りはある程度臨機応変であったようだ)主力車として運行され、結局モハ102の連結面側運転台はモハ101のそれと同様に使用される機会が殆ど無かった。

 その経験は次のモハ103-クハ24の設計に反映され、同編成は下津井初の貫通固定編成となり、更にその使用実績はこちらの2輛の更新修繕にフィードバックされ、1964年に気動車改造電車及びサハ1〜3の車体更新工事に仕様を合わせたモハ102の連結面側運転台撤去と貫通路設置、クハ22の貫通路設置、そして両車の新塗装化が実施された。

モハ102とサハ2の連結部。まずは両車の構造の違いに注目されたい。手前の2つの空気管は非常直通ブレーキの
もので、その直上の車体に空気管を通した痕跡が見える事から、老朽化に伴う腐食か何かが原因で引き通し位置
を変更した様だ。また貫通路のサイズがギリギリで、右のモハ102では雨樋を越えて屋根にまで食い込んでいる事
でも明らかな通り結構小さい車体の車輛であったが、それでも右下の表示にある通り定員で90人の乗客が運べた。


 この貫通固定編成化に際しては間に組み込まれるサハ3も徹底した更新工事を実施され、ラッシュ時の輸送に適した収容力の大きな3連が組まれたのであるが、何故かこのサハ3は路線短縮時に廃車解体されてしまい、その代わりに廃車解体されたモハ104-クハ25編成に組み込まれていたサハ2(サハ3と同様の更新工事を施工済み)が組み込まれている。

 車齢の若いサハ3から古いサハ2への入れ替えが一体何を意味するのかは今一つ良く判らないのであるが、あるいは台枠等の来歴にかなり怪しい部分のある(それは栗原からやって来たサハ全車に共通する話だが)サハ3の状態が余程思わしくなかったのか、それとも児島駅移転へ向けた布石(サハ2はサハ3に比べて約1m車体長が短いのでプラットホームの最大有効長を短く出来る)であったのかは定かではない。

 ともあれ、モハ102-サハ2-クハ22の末尾が2で揃えられた編成に組成されたこれら2輛は、ワンマン運転対応化工事が施工されなかったためもあってラッシュ時と児島競艇開催日の観客輸送時に運行されるのが主体となり、モハ103-クハ24編成の検査に伴う代走以外は一年の殆どを車庫で待機して過ごす様になった。

 これに対して、路線短縮寸前まで旧塗装のままで過ごしたクハ23はその車体の新しさと編成されるべき同型の相棒を持たない事から、その時点ではモハ110が担当していた単行運用に充当すべく路線短縮に伴う廃車発生品の台車や機器を取り付けて車体を単行ワンマン運転に適した構造に改造される事となった。

 この時の改造は、従来側面の窓配置が3D6D3であったのを、後年のモハ103-クハ24のワンマン化改造と同様に戸袋窓部で側板を切断して左右入れ替え(それ故運転台脇の窓は全て戸袋窓になった)て1D10D1に組み替えた上で、運転台の無かった側の妻面にも必要な機器を取り付けて両運転台式とした車体(このため、本来の運転台のあった妻面(Hゴム支持)とそうでなかった方の妻面(木枠)とでは窓枠の構造が異なっていた)に、廃車となったモハ52より供出された電装品一式、貨車牽引に必要なバッファー付きのピンリンク式連結器及びその取り付け座(記録を確認する限りでは、これは後年追加された様だ)を取り付け、従来の住友製鋳鋼台車に代えてモハ50形廃車発生品のNK-91を履かせるという大工事が実施された。

 この結果完成したこの車輛はモハ1001というインフレナンバーが与えられてモハ110に取って代わり、同車を長期休車→廃車に追いやった。

営業運転中のモハ1001。晩年は落書き電車として運行されていたため、車内外共に惨々たる有様であったのだが
ここでは他車には無い床下のバッファー付きリンク式連結器に注目されたい。この車は当時の国内各社線に在籍
していた現役旅客車輛としては、この種の連結器を装着する最後の車輛であった筈である。また、その上の簡易
連結器のナックル部分が開いたままとなっているのも見逃せない。これは手動で固定ピンを挿し込まないと正しく
ロックされない簡易連結器ならではの現象であった。もっとも、この写真の状態では車庫内の入換作業等を行う際
に連結前にいちいちナックルを開く手間を省くため(一般的な自動連結器と異なり、ナックル同士が接触しても連結
されず破損する危険さえある)か、開いた位置で固定ピンが上から挿し込まれて位置固定されているのであるが。


 こうして、これら3輛は車体の新しさ故にそれぞれに新しい役割が与えられて路線短縮後の生き残りが約束されたが、実質的に無改造のままで路線短縮前のコンディションを維持していたために児島競艇の観客輸送時以外はほとんど稼働しないモハ102-サハ2-クハ22、中でも特に車齢の古いサハ2は状態が悪く、筆者が2度目に、そうして最後に実見した1987年には最早立ち腐れ同然の有様となっていた。

 流石にこうなってしまうと手の施しようが無く、斯くして瀬戸大橋完成を控えてこの3連の代替新造が計画され、それは観光要素を多分に盛り込んだ設計の2000系として結実した。

 この結果まず3連中特に老朽化の著しいサハ2が1988年春に休車とされ、編成から抜き取られて工場に押し込まれた後、廃車解体された。

 これに対してモハ102-クハ22は瀬戸大橋博覧会開催に伴う観光客の乗車増を当て込んでいたのかモハ103-クハ24編成の予備車として残され、多少の整備を施した上で待機していた。

クハ22-モハ102 サハ2を抜いて2連に戻された最晩年の姿。右に元モハ103の住友金属製台車が見える。


 その2輛も結局殆ど営業運転しないままに博覧会閉幕後廃車されたのであるが、これらは廃車後暫く車庫側線に押し込まれた後でモハ102は主要電装品を一切合切抜き取られて全線廃止寸前まで倉庫代用(車内にバス用の古タイヤなどが放り込まれていた)として放置され、相棒のクハ22は下津井車庫の側線上で一足先に解体されつつあったのを筆者は1990年春の訪問時に偶然目撃している。

モハ102 廃車後、90年10月の撮影。予備部品捻出に充てられたのか、機器類は全て取り外されている。


 その現役末期は窓が錆び付いてろくに開かない様な有様であった事や、解体されつつあったクハの車体を観察すると各部の、特に木製であった床板の腐食・腐朽がかなり進行していたのが見て取れた事を考えると、その廃車・代替新造はむしろ遅きに失した感さえあった。

 現在モハ102の車体がどこにも見当たらない事から、恐らくクハ22の解体後に同車の抜け殻然とした廃車体も解体されてしまったものと思われるが、その最期に関しては不明である。

 これに対して、モハ103-クハ24と共に主力車に位置付けられていたモハ1001の方は1984年11月に車内の片側のロングシートを撤去して代わりにバス用のクロスシートを取り付ける事でセミクロスシート化され、落書きし放題の「赤いクレパス号」として運行されるなど話題に事欠かぬままに下津井電鉄最後の日まで八面六臂の活躍を続けたが、その分酷使されて各部品の摩耗が著しく、補修用交換部品が尽きてしまった事もあって、廃線直前の頃にはモハ103-クハ24の稼働率を上げてこちらの稼働時間を極力抑える努力がなされていた(筆者が1990年春に訪問した際には、昼間に下津井駅の1番線ホームの端にモハ1001が留置されていて、児島から戻ってきたモハ103-クハ24が同じホームに進入して乗客を降ろした後でこれと連結して(筆者が下津井の簡易連結器の連結作業を実見したのは後にも先にもこれ一回こっきりだった)工場の側線に押し込む、という奇怪な入れ替え作業を行っていたが、今にして思えばこの段階で故障が続発していたのかも知れない)由である。

 なお、このモハ1001は主力車であったが故に現在も下津井車庫跡の温室の中に保存されている。


モハ103-クハ24

モハ103-クハ24 新塗装に塗り替えられていた頃の姿。

クハ24前面。前照灯・標識灯共に2灯化されたのはモータリゼーションの進行に伴う踏切事故対策であったろうか。


 1961年にナニワ工機で製造された、全金属製車体を持つ2輛貫通固定編成車である。

 車体デザインは当時既に流行から外れ始めていた湘南型の前面にヘッドライトとテールライトを2つずつ取り付けた以外特に目新しい所の無いものであったが、アルミサッシ採用車となった事、連結面を当初より切り妻とした完全貫通設計であった事、そして鮮やかな紅白塗り分けの新塗装とされた事はここ下津井では非常に近代的で新鮮なものと映り、特に新塗装は新造全車及びこれ以後施工された気動車改造電車の更新車全車にまで波及した。

 もっとも機器面では従来車の仕様を完全に踏襲しており、軌間が762mmである事を別にすれば、22kw(端子電圧600V時)釣掛式電動機を4つ装架した手動進段制御・非常直通ブレーキ装備の、特にこれと言ってどうという事のない電車であった。

 この辺はモハ101-クハ21を例外とする戦後の新造電車群に限らず、戦前の非電化時代に導入されたカハ5以降の一連の大型ガソリンカー群にも共通する一貫した車輛デザインコンセプトであって、線路の幅の問題を除けば同時期の一般的な地方私鉄の新車と比べて勝るとも劣らない立派な造りの車体にオーソドックスな仕様の機器を取り付ける、というのが下津井の伝統的な流儀で、実際にモハ102・モハ103を同時期の他社新造車と比較してみると1067mm軌間の地方私鉄でもこのクラスの車は稀で、特にモハ103の世代では垂直カルダンを導入した三重交通の大作、志摩線5400形(1958年製)及び三重線4400形3車体連接車(1959年製。現在の三岐鉄道北勢線ク202-サ101-サ201)や北陸鉄道が加南線に導入したロマンスカーである6000・6010系(それぞれ1962・1963年製)が前後に存在する以外には、特に目立った新車は無い様な状況であった。

 それは、この車輛の登場後10年の間にモータリゼーションによって各地の地方私鉄が急速に廃止されていった事を考えれば無理からぬ話であったが、それだけにこの時期に新造車を投入した下津井電鉄の判断は先に挙げた三重交通(志摩半島及び湯の山温泉の観光開発に伴う乗客誘致が目的であった)および北陸鉄道(山代温泉への湯治客輸送のために設計製作された)と共に特異なケースと言えよう。

 恐らくはこちらも鷲羽山の観光開発と連動した企画であったと推測されるが、このタイミングを逸していればその後は車輛新製は恐らく叶わず、路線短縮時にモハ101-クハ21、モハ104-クハ25あるいはモハ105-クハ26のいずれかを、つまり車歴は若いが制御器が特殊な車輛か、さもなくば車体更新工事は行われてはいたが相応にくたびれた気動車改造電車をその後30年に渡って維持せねばならなかった筈であるから、当初の目的に役立ったかどうかは怪しいものの、これは充分過ぎる程に意味のある設備投資であった。

 製造当初は運転台側からd2D141D3の窓配置(d:乗務員扉 D:客用扉)であったが、1973年12月〜1974年1月にかけて定期検査の周期を捉えて行われたワンマン化工事に際し、先行して改造されたモハ1001に準じた工法での窓配置の変更が実施され、1D2141D3のワンマンでの客扱いに適した窓配置に変更された。


いい加減な合成写真で申し訳ないが、改造前のモハ103のサイドビューはこの様な感じであった。

改造後のモハ103のサイドビュー。上と比べて運転台側客用扉の位置がアンバランスなのが判る。

 この改造はd2D1と41D3の間で車体側板を切断してd2D1の部分を取り外し、同様にして裏側の側面から切り離した1D2dの側板と交換・再結合して1D2d41D3とした後、不要となったd、つまり旧乗務員扉の部分の外板を埋めて幅狭のアルミサッシを取り付けたもので、本来141の順に並んで引き戸の戸袋とされていた1の部分が先頭に来たために、運転台両脇の窓が戸袋となるという変則的で夏場の通風に不便なレイアウトであったが、原型のままではワンマン運転時の客扱いが極端に不便であった事や、運転台側面に普通の窓をもって来るにはかなりややこしい切り継ぎを行う必要があった(理想を言えば1D1d141D3への並び替えによる1D1151D3あたりが良かった筈だが、これを行うには倍以上の手間がかかる)事から考えると、改造箇所を局限して簡単に済ませた下津井電鉄の判断は正しかったと思われる。


モハ103 車体の造作こそ当時の最新流行を取り入れていたが、足回りなどの基本設計はモハ102と変わらない。

クハ24 運転台横に戸袋窓が来るため、前面向かって左側の窓の下側1/3が開閉可能に改造され、右側尾灯下に
通気口が追加されている。原型では乗務員扉があり、上部に通風機が設置されていたため、前面窓は固定であった。

クハ24車内。右の縦長の窓周辺に注目。手すりや網棚が本来の扉の位置で切れている。


 尚、この改造時に充分な換気能力を確保するためか、運転台前面の各窓下に設けられていた細い通風口が撤去され、その代わりに旧車掌台側の前面窓の下半分が開閉可能に改造された他、塗色の前面塗り分けラインも変更されている。

 以後は長らく無改造・無塗色変更のままで過ごしたが、1984年に長年の酷使で痛んだ車体の補修・更新が実施され、更に瀬戸大橋完成を控えた1985年6月には塗装の変更が実施され、白と赤の2色の組み合わせは変わらないものの、白を基調に赤いストライプを斜めに入れた今風のデザインとなった。

 但しこの塗装はあまり長続きせず、1988年の瀬戸大橋完成時に開催された瀬戸大橋博覧会に合わせて2000系「メリーベル」が導入される頃には富士フィルムをスポンサーとし、同社のフィルムパッケージをイメージした緑色基調の広告塗装に塗り替えられてしまい(1988年4月施工)、結局この塗装で廃線まで運行される事となった。

 この車輛は廃線の日まで長らく主力として活躍し、「メリーベル」導入後もその地位は殆ど変わらなかった(「メリーベル」が本格的に運用され始めたのは中間のサハを抜いて2連に組み替えてから)。この事から考えるに、路線短縮後の当線では2輛編成が一番扱い易かった様である。廃線後の処遇は下津井車庫跡での保存で、現在も同地にて永い眠りについている。


モハ2001-サハ2201-クハ2101 “メリーベル”

 瀬戸大橋完成に合わせて陳腐化の著しかったモハ102-サハ2-クハ22編成の置き換え用として製造された、下津井電鉄にとって実に27年ぶりの、そして最後の新造車である。

 「大正ロマン電車」というコンセプトでデザインされ、ダブルルーフにカウキャッチャー、加えて正面の展望デッキに飾りのベルという何処か勘違いの節が伺える外観を赤(スカーレット)一色に装い、「メリーベル」という愛称を持つこの電車は、実際には瀬戸大橋の眺望に重点を置いた完全オープンデッキ構造の客室(雨風に対する対策として座席はカラーパイプを並べて構成されたものであった)とその逆に冷暖房完備でセミクロスシートの客室とを併せ持つ極端なアコモデーションの車体と、補助電源装置用静止形インバータ(SIV)、電気指令式電磁直通ブレーキ(HRD-1)、メンテナンスフリーを実現する密封円錐型コロ軸受け、そしてZ型パンタグラフ(補助電源に用いるSIVの動作の関係で離線対策としてモハとクハに各一基を搭載し、600V母線で結合。ちなみにこれは同メーカーで広島電鉄等の路面電車向けに生産されているのと同型であった)と初物尽くしの近代的なハードウェアの合体という、およそ大正ロマンからは縁遠い代物であった。

 ただ、コンセプトとの乖離はともかく個々のパーツ毎に検討してみると非常に良く出来た部品の集合体であったのは確かで、連結面に取り付けられたえらく立派なユタカ製作所製電気連結器(高井薫平氏の記述によると、当時の新幹線用の物と同じ最新型であったらしい。今にして思えばMc-Tcの両パンタグラフ間を結ぶ600Vの母線結合用なのだから立派で当然であった)や、敢えて下津井工場手持ちの予備品を流用した制御器(元来は路線短縮時の廃車発生品で、長らく検修用予備部品として工場にストックされていたTDK製HL制御器が整備・改修の上再利用された)や主電動機(冷房装置搭載等に伴う自重増大に対応した出力アップのため、絶縁強化等が実施されたが基本構造は変わらなかった。ちなみに下津井電鉄は長らく、回転変流器&ガラス槽水銀整流機という時の流れが停滞したようなとてつもなく古風な組み合わせによる変電施設を用いていたが、このメリーベルの導入時に予備機であったガラス槽水銀整流機を廃棄し、シリコン整流器に置き換えている。モハ2001での定格出力アップや冷房搭載実現は、この変電所強化という大きな設備投資の賜であったことは指摘しておきたい)を含め、何故組み上げて一輛の電車にしたらこうも奇怪な代物となるのか首を傾げる他なかった。

 前述の通り塗装は赤一色で、両端のモハとクハの側面窓下には「SHIMOTSUI★COAST★LINE」と白色文字でレタリングされていて、更に瀬戸大橋博覧会会期中はサハの側面に「瀬戸大橋博‘88・岡山 むすぶ心 ひらく未来-21世紀へ向けて」という文字が同様にレタリングされ、モハとクハも瀬戸大橋博のマスコットキャラクターが描かれた板を側面に取り付け、ヘッドマークも掲げていたが、これらは会期終了後撤去された。

 この車輛で特徴的だった点の一つに乗降扉が各車一カ所ずつ(サハのそれは往年の小田急ロマンスカーよろしく非常用であった)とされていた事が挙げられる。これは、明らかにこの電車をワンマン運転する意図が下津井電鉄自身にあった事を示す物であるが、2連の時はともかく果たして3連でワンマン運転が実施されたのかどうか現役時に確認を怠っていたため、残念ながら筆者としては確言出来ない(少なくとも筆者の乗車時は新造直後の多客時であったためか、2人乗務であった)。

 この編成は閑散期に中間のサハを抜き取る事が可能な構造(サハが完全オープン構造であったのはこのためとも考えられる)で、1989年春頃に実見した際にも2連で営業に就いていた(筆者が3連を見たのは入線当初と廃線前の秋の2回だけで、それ以外の時は下津井駅にサハが放置されていた)から、サハ2201の生涯の総運行キロ数はかなり短いと考えられる。

 かくしてこの車輛は僅か2年8ヶ月という、恐らく殆どの人間が予想もしなかった短命で生涯を閉じた。廃車後の処遇はモハ103等と同じであるが、最近三岐鉄道へ移管された旧近鉄北勢線での復活というプランが提案されており、実際に保管されている旧下津井駅跡の保存庫へ調査団が派遣されたりもしているので、事によると新造後短期間で廃車後15年以上経ってからの復活という、およそ誰もが予想どころか夢想さえしなかった様な冗談めいた復活劇が見られるかも知れない。


気動車改造グループ


カハ50〜55→モハ50〜55

モハ110(旧カハ50→モハ50)前面。再整備直後の姿で前照灯が喪われ、窓枠が本来の塗装と異なり白く塗り分け
られていないが、古い標識灯やエアホース等の装具類一式は正しく装着されており、非常に美しく整備されていた。


 下津井電鉄の主力車として電化前から路線短縮まで長らく愛用された、鮮魚台(バスケットとも言う)を前後に持つ気動車改造電車である。

 製造は加藤車輛製作所で50,51が1934年、52が1936年、53〜55が1937年に製造された。

 子細を見ると先行した50〜52とそれ以降とでは車体寸法(主に鮮魚台の寸法)が微妙に異なっているが、製造年に開きがある事を考慮するとその間の使用実績が盛り込まれて改設計が実施されたという事であろう。

 これらを製作した加藤車輛製作所は大戦前に大阪に所在していた中堅車輛メーカーで、西日本の地方鉄道・軽便鉄道を中心に気動車・客車等を供給した事で知られ、特に中国鉄道(現・JR西日本津山・吉備線)には毎年大手の日本車輛製造と競作の形でオリジナル設計の大型ガソリンカーを送り込んでいた。

 このカハ50も本来は日本車輛製造が製作する筈であった(実際にカハ6を引き延ばした下津井鉄道向け気動車計画図が近年になって発見されている)のを加藤が営業努力で受注に持ち込んでしまった(その前にカハ6の増備車となるカハ8が加藤の手で製作されている)もので、蒸気機関車のメーカー選定で見られた様に元来一流ブランド志向の強い下津井鉄道の首脳陣を一体どうやって説得したか気にかかるが、ともかく出来上がった車輛は窓配置がd1D7D2と軽便としては非常に堂々とした、それでいて均整の取れたフォルムの立派な物であったから、堅実をもって旨となす下津井の首脳陣を納得させる事に成功したであろう事は想像に難くない。

 また、最初の2輛だけで終わらず時間をおいて追加発注で4輌が製造され、最終的に既存のカハ5のグループを上回る6輛が揃えられたのであるから、察するに運行面でも好評であったのであろう。

 大戦中には一部が鮮魚台に木炭ガス発生装置を搭載して代用燃料車となったとされるものの、急勾配でガソリン車時代でもパワー不足の傾向があった下津井の急峻な線形を考えると、果たしてどれ程実用になったのか疑問が残る。

 ただ、戦後燃料不足の折りにわざわざ代用燃料車用として自前の木炭製造所を開設していた事を考えると、石油のみならず蒸気機関車を動かすための石炭の確保にも難渋させられた当時の状況下では、あるいはそれでも無いよりはまし(但し、当時の状況では届け出上は代燃車としておけば、実際には代燃装置を止めてヤミ物資で調達したガソリンを用いて運用していても関係各方面に申し訳が立った、という事情もあった)だったのであろうか。

 この車輛は敗戦直後の燃料費の極端な高騰に音を上げて実施された1949年の電化時に、それまでのウォーケシャ6MKガソリンエンジンとその付帯機器を下ろし、代わりに22kwのモーター4つとその制御に必要とされる電装品、それも軽便鉄道向けとしては我が国初となる総括制御用HL制御器を搭載して電車化された。

 1949年といえばまだ極度の物資不足が続いていた頃で、この時期に電動車用電装品6輌分と制御車5輌分の制御器、それに単純計算でも21km、恐らくのべ25km分程度は必要とされたであろうシンプルカテナリ式の架線(その大部分は、資本面で下津井と縁の深い、丸亀を起点としていた琴平参宮電鉄の単線化工事で捻出された資材を譲受して確保された)や、細くともきちんとしたアングル材を組んだ鉄塔が用意された架線柱、あるいは出所不明の中古回転変流式整流器(これは下津井最後の日まで稼働し続け、我が国の地方鉄道用変電所としては最後の予備ではない現役回転変流式整流器となった。独特のうなりを上げて稼働する姿が何とも印象的な機材であった)を備え付けた変電所といった地上施設を一気に揃えるのは相当困難な事であった筈であるが、栃尾鉄道や遠州鉄道奥山線、それに淡路交通といった同時期にやはり燃料価格の高騰に苦しんで電化した各社を見渡してみてもここまで徹底した工事を実施した所は他に無く(同じ瀬戸内の事業者という事もあってか淡路はコンセプト的に下津井にかなり近かったが、架線鉄塔を揃えられず木柱を多用していた)、苦境にあって尚一流を求めた下津井首脳陣の信念あるいは執念は見事と言う他ない。

 ちなみに、電車化によるパワーアップの効果は劇的で、気動車時代には不可能だった客貨車(それも1輛の電動車で3〜4輛)の牽引が可能となり(このためにモハ50〜55とクハ5〜8には従来よりの加藤車輛製簡易連結器(軽量化の要求の厳しい気動車向けとして自動連結器の自動ロック機構を省略し、構造を単純化したもの)に加えて、その下に客貨車連結用のバッファ&リンク式連結器が追加搭載されている)、電化当時1,11〜13,15の計5輛が在籍していた開業以来の蒸気機関車群は電化完成とその成功を見届けて廃車解体されている(もっともこれは、時期的に朝鮮戦争勃発で屑鉄価格が暴騰した事が大きく影響していたらしく、巨額の支出を要した電化費用を埋め合わせる必要性もあって全てスクラップとして売却されている)。

 この時期の電化組で最初から高価な総括制御を導入したのはここと淡路交通だけであり、特に条件の悪かった栃尾など片ボギー式気動車のガソリンエンジンを撤去した上で、元々エンジンが懸架されていた場所に無理矢理大型の電動機を取り付けて気動車時代の駆動系に接続する(理屈上はカルダン駆動という事になるが、実体はそんな格好の良いモノではない。但しその運用経験は後に同社が神鋼電機の垂直カルダン駆動を大量導入する伏線となった)という、乱暴極まる工事を施した「電車」を走らせていた。

 もっとも、流石の下津井もこの時点ではこれらカハ50改めモハ50の偏心台車を通常型台車に交換する所までは手が回らなかった(それでも重い主電動機を釣り掛ける関係で各軸のペデスタル周辺に板を当てて強化し、その板に主電動機釣下用の台車端梁が直接溶接してあったから、結構手間暇をかけて改造した事が知れる)様で、そのせいかこのグループには以後様々な部分に手が入れられ、最終的には鮮魚台の部分まで車体を延伸してその後の新造車、具体的にはモハ102,クハ22,23のグループに準じた仕様とするという、相当に大規模な更新改造工事を行った車輛も現れた。

 もっとも、更新工事の実施された1960年代中頃はそろそろ岡山-児島間直通の自社バスや自家用車が台頭してきた時期であり、この影響で営業成績が思わしくなくなってきた(恐らくこの時点で茶屋町-児島間の廃止が視野に入っていたものと思われる)ためにこの工事は計画途中で中止され、最後に予定されていたモハ55の更新は実施されずに終わっている。

 ちなみにこの更新工事はモハ51,54,50の順で実施され、最初のモハ51→モハ104の時には本来の車体と全く同一工法での旧乗務員扉の埋め込み・鮮魚台部分への運転台移設・片運転台化・車体延伸が実施された(窓配置は3D7D3となった)ため、ウィンドヘッダ・ウィンドシル共に丁寧にリベットが打たれてやや古風な趣であったが、2番目のモハ54→モハ105の時は基本的にはモハ104に準じるもののウィンドヘッダの前面部とウィンドシルが溶接で処理される様になって随分すっきりした感じに改良され、最後に単行運転用に両運転台のまま更新されたモハ110(1963年更新)では延伸部分については全面的に溶接が取り入れられた上、当時最新鋭のモハ103で左右に乗務員扉が付いていたのが余程便利だったのか、こちらも車掌台側を含めた乗務員扉付き(窓配置:d2D7D2d)で出場している。

 但し、これはモハ110が単行運転用と言うよりはむしろ、既存の客貨車を牽引するための電気機関車代用目的で両運転台のまま更新された事と関係があると考えられ、実際に更新改造工事竣工から路線短縮までこのモハ110は貨車牽引による混合列車運用に優先的に充当されていた事が知られている。

 これら6輛の変遷は以下の通り。


気動車時代  電車化   車体更新・改番  廃車時期 廃車後の処置

カハ50 → モハ50 → モハ110 → 1977 長期保管後1988年に車体を鷲羽山駅待合室に転用

カハ51 → モハ51 → モハ105 → 1972 解体

カハ52 → モハ52         → 1972 電装品をモハ1001に供出の上解体

カハ53 → モハ53 → モハ 65 → 1972 解体

カハ54 → モハ54 → モハ104 → 1972 解体

カハ55 → モハ55         → 1972 解体


モハ110(旧カハ50→モハ50)。廃車後長らく下津井車庫内で放置の後、1988年に鷲羽山駅待合室に転用のため
に 整備直後の姿。ちなみに車内からは座席が撤去されていて、反対側の側窓へは保護棒追加が行われている。


 更新工事その他による改番で固定編成のMcとなったモハ54・51は順にモハ103の追番で付番されているが、機関車代用あるいは単行用のモハ50については別途110というモハ50形残り全車を更新しても重ならない特別な番号が割り振られており、これだけは別扱いであった事が判る。

 これらの更新車3輛についてはその改番理由は明白なのだが、不可思議なのが未更新にもかかわらずモハ65に改番されたモハ53で、この車輛については改番理由だけではなく、わざわざ“65”という中途半端なナンバリングとなった理由さえ明らかになっていない。

 貨車まで含めた下津井の在籍全車輛の中に60番台の型式番号を付番されたものが1輛も無い状況で、何故60や61、あるいは63を避けて65としたのか、幾ら考えても合理的に説明しうる理由は思い当たらず、またそのモハ53→モハ65が完全に無改造(モハ65となって以降に撮影された床下がクリアな写真を眺めてみても、偏心台車の入れ替えの件を別にすれば足回りに手を入れた痕跡は見当たらないし、車体も手動扉で鮮魚台を持つ、カハ50形以来のままの仕様だった)とあっては、一体何を目的とした改番であったのかを理解する術は絶無である。

 あるいは、主電動機の出力アップを実施したか、それとも制御器や空制系でも換装したものかとも考えられるが、それにしても65という番号は謎めいており、筆者の貧弱な調査能力ではこれ以上は正直手に余る。

 恐らくこの車輛については、下津井電鉄から運輸省への改番申請にかかわる書類を閲覧しない限り、その改番のいきさつは判明しないことだろう。

 このグループの廃車時期は1輛を除き路線短縮時で、先に廃車された5輛については解体も73年夏までに実施され、主電動機などの主要機器類は予備部品として下津井工場に保管された。

 最後まで残存したのはモハ110となっていた旧カハ50で、この車輛は先述の通り機関車代用で貨車を牽引したり早朝・深夜の単行運用に充当したりするために両運転台のままで更新されていた事が幸いして、路線短縮直後に実施された大規模な車輛整理の対象からは外され、モハ1001の改造工事が完了するまでの約1年間、唯一の単行運転用車として重用された。

 その後はモハ1001と交代して長期休車状態とされたが、結局二度と営業運転に使用される事のないまま1977年に除籍されている。

 その後1988年になってその車体を座席・機器撤去(パンタグラフは残されたが床下機器は重量過大のために全て撤去された)の上で整備・再塗装し、貨車の台車を付けて鷲羽山駅の待合室に転用されたが、路線廃止後程なく同所から撤去された。

 恐らく、スクラップとして売却→解体されたものと考えられるが、以後の消息は不明である。


カハ5〜8→クハ5〜8

 クハ5(旧カハ5) 運転台寄りの台車が偏心している事に注意。


 電化後は制御車として使用されていたために印象が薄いが、下津井初のボギー式ガソリンカーとして製造されたグループである。

 厳密に言えばこのグループは先行試作車にあたるカハ5と量産車としてのカハ6・7、それに同型のコピー車であるカハ8の3グループに分類されるが、車体のサイズ・設計がほぼ同じであるために取り扱い上は1グループとして扱われて来た。

 製造は5〜7が日本車輛製造(本店)、8がカハ50と同じ加藤車輛製作所で、5〜7が1931年に、8は1933年に入線している。

 先行試作車とでも言うべきカハ5は鮮魚台無し、一段上昇式窓(窓配置:1D7D1)という形態で設計されていたが、カハ6,7では鮮魚台が取り付けられ、窓も二段上昇式に変更された。

 カハ5が製造されてから6,7が製造されるまでの間には何ヶ月か経過している事から、恐らく使用実績に基づく設計変更がなされたと考えられる。

 なお、このグループで外観上特徴的な変化となった側窓の2段上昇式への変更だが、これは日本車輌製造本店の場合この時期以降になって採用例が見られる様になった仕様であるものの、西大寺鉄道キハ6の様に1936年になって1段下降式窓で出荷された車もあるので、必ずしも製造メーカー側の都合での仕様変更ではないと思われる。

 ちなみに、カハ8は一見カハ6,7の単なるデッドコピーに見えるが、車体が側窓1つ分長くなり(つまり窓配置は1D8D1となった)、エンジンもウォーケシャ6M3(出力41.78kw)から後のカハ50と共通のウォーケシャ6MK(出力73kw)になっていて、大幅なパワーアップが実現している。

 さすがに日車製の丸写しは嫌だった様だが、そのためこの車のデザインには加藤車輛の特徴・個性は殆ど発揮されていない。あるいは下手に色気を出して設計変更すると次の増備車発注が来ない危険性があったためかもしれないが、お陰で下津井に入った加藤車輛製作所製気動車はいずれも日本車輛製造製気動車と大差ない、安定感のある明朗なデザインとなっている。

 この2社に毎年競作させた近隣の中国鉄道(現在のJR津山線)の気動車が増備ロット毎、メーカー毎に徹底的に形の違う(さすがに足周りは共通だったが)車輛となってしまっていた事を考えると、両鉄道の企業としての経営方針の違いが見えて興味深い。

 モハの更新にあわせて相棒となるこのクハの方も編成貫通化を目的とした更新改造工事が実施されたが、元来車体が長く単純に鮮魚台の部分に運転台を張り出しただけのモハとは異なり、車体長が短かくしかも長さがまちまちだったクハの場合、台枠の継ぎ足しによる車体延長とそれに伴う台車ボルスター位置の移設、そしてこちらは台車枠の切り接ぎに手を染めた偏心台車の改善が同時に実施されたので、かなり大がかりな改造になってしまっている。

 しかも、6輌共仕様的にほぼ同一であったモハと異なり、元来4輌が3グループに分類されるクハの場合、工事手順一つとっても厄介で、クハ8→クハ25とクハ7→クハ26でさえ台車・車体共に工事内容が異なっており、連結面側の窓寸法やその数が異なる(客用扉間の長さの違いからクハ25:12D8D3・クハ26:12D7D4となった。つまり車体延伸は極力元の鋼体を生かして両端を伸ばす設計で工事が行われた訳である)という有様であった。

 そのためもあってか制御車の更新改造工事はなかなか進まず、結局クハ5,6の改造は見送られてしまった。

 あるいはモハ50が単行運転を前提とする両運転台のままでモハ110に更新されたのも、この制御車の更新に手を焼いたためかも知れない。

 もっとも、それだけ手の掛かった割に更新車の方は路線短縮時にさっさと処分された(1972年除籍・1973年解体)のに対して、クハ5,6の方は廃車にはなったものの未更新で古い様式を残していたお陰で2輛とも保存車として残存し、クハ5は下津井車庫に保管された後に再整備されて下津井駅に展示され、鉄道廃止後も他の保存車と共に保管されている様であるし、本来は解体されて然るべきであったと考えられるクハ6も車体サイズの手頃さ故か系列のドライブイン長船に引き取られて保存されているのであるから、何が幸いするか判ったものではない。


クハ5(旧カハ5) 下津井駅構内にて展示されていた当時の姿。保存に当たって再塗装が施されており、現役当時とは色が微妙に異なる。


 考えてみるとこのクハ6は現在一般に見る事が出来る唯一の下津井電鉄の電車という事になる。もっとも、現状はかなり悲惨な状況らしいのだが・・・。


カハ1+カハ3→クハ9

 下津井初の気動車となった、軌道自動車と呼ばれる日本車輛製造特有の2軸単端式ガソリンカー2輛を背中合わせに結合して作られた制御車である。

 単端式というのは自動車の様に一方の車端にエンジンを装架した構造の気動車を云い、当然変速機も自動車の物と似たり寄ったりで逆転機を持たないため、長時間のバック運転が出来ず、蒸気機関車同様に両端駅でターンテーブルに乗せて方向転換せねばならないという、ひどく原始的な代物であった。

 下津井鉄道がこの種の気動車を導入する事を決意したのは、近隣の各私鉄同様に井原-笠岡間を本線とする井笠鉄道がこれを最初に導入して高頻度運転を行い、乗客のバスへの逸走(この時期既にバスとの競争は深刻な問題であった)を最小限で食い止める事に成功したのに刺激されたためであった。

 この種の車輛ではエンジンも自動車用、一般的には非力なフォードT等がそのまま流用されるのが常(流石に下津井の場合フォードTでは点在する急勾配区間を登りきれなかったらしく、客を降ろして彼らに後押しをさせた話が結構伝わっており、強力なエンジンを搭載したボギー車の導入開始後、足並みを揃えるためにより強力なフォードAに換装している)であったから、その非力さをカバーすべく車体は可能な限り軽量化(単に強度保持部品を削ぎ落として脆弱にしただけだ、という意見もある)されていた。

 そんな車輛の車体まで流用せねばならなかったのであるから、いかに電化時の物資不足が深刻なものであったかという事になろうが、ともかく電化当時下津井に残されていた3輛の単端式ガソリンカー(カハ1,3,4。カハ2はカハ50形導入時に余剰廃車されたが、これは多数の同系車を擁する井笠鉄道に特に望まれて譲渡されている)の内、カハ1と3の車体を組み合わせてクハ9は作られた。

 この種の工事は、対岸の伊豫鉄道で在籍2軸客車の大半を対象とした二個一によるボギー客車化を、新潟県の栃尾電鉄がやはり2軸客車2輌の結合(ホハ10)を、共にちょうど同じ頃に実施しており、物資不足の時期に手持ち車輛や手持ち資材を最大限有効活用してどうにか輸送力を確保しようという、当時の各社の涙ぐましい努力が伺える。

 もっとも、この時代には国鉄でさえナハ22000系等の鉄道省制式木造17m級客車の規格型台枠5輛分を切り接いで4輛分の20m級台枠に仕立て直し、オハ60系鋼製客車として再生していたのであるから、各社共に今の我々が思う程には切り接ぎに対して抵抗が無かったのではなかろうか。

 この時、下津井がより新しいカハ3+4を組み合わせなかったのは、カハ1〜3と4とでは車体断面が異なっていたためであった。

 この車輛の台車はカハ1と3のそれぞれが装着していた二軸単台車を分解し、それらを巧妙に組み合わせて作ったというとんでもない代物であったが、元来極端な軽量化を目論んで設計されていた種車の性質故か、国鉄ナハ10系軽量客車の履くTR50系台車に似通ったデザインに偶然まとまってしまった事で、当然ながら只でさえ華奢なパーツを組み合わせた怪しげな代物だけに丈夫な筈は無く、車体台車共に衝撃に弱いために大した活躍もしないまま路線短縮時まで在籍し、他の余剰車と同様に1973年中に下津井工場で解体されて波乱に満ちたその生涯を終えた。

 本来員数合わせのためだけにでっち上げられた車だった筈だが、工場が手塩にかけただけに愛着があったのか、弱い弱いと言われながらも路線短縮まで生き残り、結局は現役最後の営業用日本車輌製単端式気動車として井笠に集結した同系車群よりも長生きしたのだから、並々ならぬ強運を備えた車であったという事になろうか。

 最終期の塗装は電化後のスタンダードとなったクリームとマルーンの二色塗り分けで、新造車等に塗られた紅白の塗り分けはされずに終わっている。


譲受車グループ


サハ1〜3

サハ2 廃車直前の頃の姿。台車が路面電車並みにかなり内側に寄っているのに注意。


 1955年に改軌した宮城県の栗原電鉄から譲受した、モハ2401〜2403(1950・51年日本鉄道自動車工業製)を前身とする付随車である。

 栗原は1950年の電化にあたってED18という高価な18t級凸型電機(改軌で2t重量増となり、ED20に改番された)を3輛、三菱で新製して揃えており、当然電車についても叶う事なら完全新車の購入を希望していた物と考えられるが、1950年といえば朝鮮戦争勃発の年であり、未だ物資の不足が続いていた当時の情勢下では最優先事項であった金属資源輸送のための電気機関車は新製出来ても「副業」でしかない旅客輸送用の車輛、それも特殊な軽便鉄道向け電車の完全新造は至難の業であり、加えて発注先のメーカーがメーカーなので手持ち部品や中古品をかき集めて組み立てられた車輛であったらしく、2401,2402と増備車の2403とでは車体長及び台車が異なっている。

 特に、モハ2401・2402は上に掲げた後身であるサハ2の写真でも明らかな通り、この種の地方鉄道向け車輛としては異例な程に台車のボルスタ位置が内側に寄っており、古い路面電車の台枠を流用した可能性が考えられるが、残念ながら撮影当時カメラを手にしたばかりの中学生2年生だった筆者はこの車輛の前身についての充分な知識を持ち合わせておらず、写真撮影は行ったが床下に潜って台枠の梁がどうなっているかまでは確認しなかったため、この点については断言できない。

 なお、この写真では隣のクハ22やモハ102と比べて塗り分けラインが低くなっているが、これは後年の台車交換で車輪径が本来の台車のそれより小さくなったためで、台車交換後も旧来のラインが踏襲された結果、サハだけが妙に腰が低く見える様になってしまったものであった。

 モハ2401〜2403という元の形式が示す通りこの車輛は元来電動車であった。それが下津井入り時(ちなみに書類上は新造扱いであった)にせっかくの電装を解除されたのは、このグループが戦後の新製車であるにもかかわらず路面電車並みの単純な直接制御車であって制御車からの総括制御ができなかった事による。

 これは栗原が動力車が列車の先頭に立ってトレーラーを牽引する、という気動車時代以前からの伝統的な運行形態を踏襲していた(電気機関車を導入していたのだからそれはごく自然な発想だったのであろう)ためと考えられるが、逆に言えば、元々運転台が設置されていた気動車を改造した車が大半を占めていたとはいえ、下津井が戦後すぐの資材難の時代に我が国の軽便鉄道としては初の総括制御電車を揃えた事の先見性(なお、同時期にやはり燃料入手難故に電化した淡路交通も気動車を総括制御のかなり本格的な電車に改造しており、軌間は違えど瀬戸内の2社が同時期に同じ方針を採っていた事は興味深い。この前後の時期に同じ挙に出た同業他社にあって、最初から総括制御を採用した会社が他に1社も無かった事を考えると、全国的に見てこれはかなり異様な現象である)は高く評価されるべきであろう。

 ちなみに宮城県で走っていた電車が遥か遠く離れた下津井入りしたきっかけは両社に車輛を納入(栗原の改軌時(1955年)にM151という下津井のモハ102(1954年製)を拡大した様なデザインの車輛を納入している)したナニワ工機(後のアルナ工機→アルナ車両)の仲介と考えられる。

 このナニワ工機は、周知の通り阪急電鉄が自社車輌の製造を目的に創設した系列会社であり、近鉄が瀬戸内の交通事業者を次々に傘下に収めて行った時期に只一社、下津井電鉄が阪急の傘下に入った遠因はここに求められようか。

 この形式は当初電装を解除し、乗務員扉を埋めただけで使用されていたが、モハ103-クハ24の入線以降気動車改造電車やモハ102-クハ22が貫通路付きの固定編成仕様に改造されるに際してこれらもそれに準じた更新改造工事が実施され、サハ2,3がそれぞれモハ104-クハ25とモハ102-クハ22の間に組み込まれて貫通固定3連となり、ラッシュ時の主力車として重用された。

 なお、残るサハ1は72年の路線短縮まで殆ど改造されないまま残され、クハ9等の相棒として使用されていた様だ。

 廃車はサハ1,3が路線短縮時で、他車と同様に1973年までに解体されている。

 これに対し、サハ2は何故か路線短縮時にサハ3と入れ替えられてモハ102-サハ2-クハ22という末尾が2で揃えられた編成に組み込まれて最終期まで生き残った。

 この時何故車齢の若いサハ3ではなくサハ2が残されたのか、今一つ解せない物があるが、あるいはサハ2の方が徹底的な更新を受けていた可能性(実際、まだしも栗原時代の面影が感じ取れたサハ3と異なり、サハ2に施された更新改造工事は原型を留めない、より徹底した物であった)も考えられる。このサハ2を含む編成はラッシュ時および児島競艇開催日の混雑対策として残存していたのであるが、そういった理由で残された位であるから普段は殆ど稼働せず、ひたすら車庫で待機し続けていた。

 そんな状態は実に15年に渡って継続したが、ろくに使わずに放っておかれたので3輛とも晩年にはすっかり痛んでしまっていた。

 それ故1988年春の「メリーベル」導入時には老朽化が深刻であったサハ2だけがモハやクハに先行して夏前までに廃車され、同年秋までに解体されている。


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