京阪電鉄5000系


 恐らくは京阪電鉄の車両中でもテレビカーと並んで良く知られているであろう、日本初の5扉電車である5000系の第1編成による出町柳行き普通。

 やけに角張った印象の電車だが、これは荷重増大対策として車体が軽量なアルミ製とされた為で、アルミ合金製電車の製作では山陽電鉄2000系以来日本の最先端を走っていた川崎重工であっても、この車が設計された1969年頃ではコストや組立技術その他の制約から角張った車体設計とせざるを得なかったのである。

 それでもきちんと塗装を施してあるのは流石で、アルミ車で先行した山陽電鉄や大阪市交通局が軽量化と共にメンテナンスフリーや経済性に主眼を置いて非塗装の方針であったのに対して、あくまで荷重制限オーバー対策としてやむを得ずアルミ化に踏み切ったに過ぎない京阪は、当系列に対しても一般車同様の塗装を施し、以後のアルミ合金製車体採用車両についても同様に全車を塗装仕上げとしている。

 この辺については関西私鉄は意外に塗装派が多く、3000系試作車でステンレス非塗装仕上げを試験してみた近鉄も思う所があったのか以後に製造したアルミ車はことごとく塗装仕上げであるし、阪急も近年の新車は全てアルミ合金製だがあの伝統のマルーンを墨守している。

 これに対し、山陽・阪神・南海の3社はステンレス/アルミ車について原則的に非塗装の方針を採っている。

 海岸線を走行する3社が揃いも揃って非塗装としているあたり何か特別な理由がありそうだが、その真意は定かではない。

 話が脱線したがこの5001を含む編成は5000系の中でも少々変わった仕様で、7連を4+3に分割出来る、つまり中間に運転台付きの車が入る編成仕様になっていた。

 ラッシュ時の切り札として設計され、架線電圧600Vの線区で現実的に許容される最大連結両数である7連で可能な限り立席定員を確保しようとして設計された電車で中間にわざわざデッドスペースを設けるというのも妙な話であって、一体京阪の設計陣が何を考慮してこの様な編成としたのかは定かではない(注1)が、どうもラッシュ時以外には2ドア閉鎖の上で編成分割して本線普通と支線普通に用いる構想であったのではないかと思われる。

 とはいうものの、本線普通も支線普通もラッシュ時以外には一般車が有り余っており、ラッシュのここぞという局面でフル稼働してくれればそれでOK、という当系列の製造目的を考えれば7連固定がよりベターな選択であるのは自明であって、事実第3編成以降は7連固定で製造されている。

 なお、当編成は1999年に行われた定期検査に伴う工場入場時に車体改修工事と編成の組み替え(=7連固定化)が実施されており、5001は編成の中間に運転台撤去&改番(5001→5101)の上で閉じこめられてしまったから、これは同車が先頭に立っていた時代の貴重な記録という事になる。

 ちなみにこの写真で見えている正面貫通扉窓下の行先表字装置は後年の取り付けで、かつては車掌台側窓下に行先表示板をぶら下げて運行されていた。


(注1)この点は小学生時代以来長らくの間、筆者にとって疑問だったのだが、2008年に入って「鉄道ファン」誌上で本系列の記事が掲載された際に経緯の説明が行われた。それによれば、編成分割仕様とすることで認可を渋る監督官庁に対しあくまでも試作車なのだ、と認識させることと、京阪としては初採用となったHRD-1全電気指令式ブレーキの不具合発生時への対応として、予備運転台を確保するという、2つの採用理由があった由である。後、本文掲載後に京阪の車庫の変遷を調べていて気付いたが、かつての深草車庫は構内配線の都合上7両固定編成の入線は不可能(筆者は受験浪人で京都五条に住んでいた頃に、まだ留置線扱いで残されていた同車庫を実見したことがあったが、確かに狭くてとても7連を収容できる設備ではなかった)であり、同車庫への出入庫を伴う運用に充当するには、他の系列と同様に編成分割できないと困る、という事情もあったようだ。


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