京阪電鉄2600系
2600系の2+3の5輛編成による各停。
この写真の場合は、細部が潰れて見づらい車輛よりもむしろその周囲の地上設備群にこそ注意を向けて頂きたい。
実を言えばこの写真は、複雑だが高速運転時の安定性に優れるコンパウンド・カテナリ方式の架線、重いそれらと変電所間の送電線群を架ける関係で無数の部材を組み合わせて建てられた丈夫で大きなガントリー(門型鉄塔)、両外側の2線のみにプラットホームを設けて急行線となる内側線にはホームを設置しない綺麗な駅施設デザイン、それにとにかくまっすぐな複々線区間が続く見事な線形、と大阪方の京阪電鉄の地上施設を象徴する様な部分を記録に残す為に撮影したものである。
今でこそ、関東私鉄でも複々線区間の存在する線区がそれ程珍しくなくなって来ているが、それでもこの京阪の大阪方複々線区間に匹敵する様な雄大さを備えた設備は無いだろう。
だが、ここで真に驚くべきは撮影された設備の大半が1932年に蒲生(現在の京橋)−守口間の複々線化が完成した時のままだという事だ。
1932年と言えば昭和恐慌の傷の癒えない頃であって、同じ頃に不況対策を兼ねた公共事業の色彩が強かった大阪市営地下鉄1号線(御堂筋線)が都市計画の専門家として知られた関一市長の指揮の下、やはり今でも通用する破格に大規模な施設で開業しているが、走行する電車が単行、もしくは良くて2連だった時代に、将来を見据えてこれだけ壮大な線路改良計画を立案し現実のものとした,当時の人々の構想力と実行力には脱帽する他無い。
実際、この区間に展開する光景の雄大さは破格の物で、パシフィック・エレクトリックの様な我々が書物でしか知る事の出来ない全盛期の米国のインタ・アーバン群を見る思いがするが、それも当時の京阪の技術者達が渡米して学んだ結果であると知れば納得も出来よう。
余談になるが、京阪線のこの区間とどことなく印象の共通する線が関西にはもう2つある。
それは、現在の阪急京都線とJR西日本の阪和線(及びそれぞれの支線群)で、その前身が新京阪鉄道(→京阪電鉄新京阪線→京阪神急行電鉄新京阪線→京阪神急行電鉄京都線→阪急電鉄京都線)と阪和電鉄(→南海鉄道山手線→鉄道省阪和線→運輸省阪和線→日本国有鉄道阪和線→西日本旅客鉄道阪和線)という、いずれもここの施設と同時代に京阪の技術陣が手掛けた兄弟の様な路線群であった為である。
良く知られる様に、第一次大戦による好況期に一大電力コンツェルンを形成して次々に大規模な設備投資を敢行した京阪電鉄は、直後に恐慌を迎えたが故に昭和初期には非常な苦境に追いやられてしまった。
だが、その当時過剰投資を批判された巨大インフラ群はそれから優に60年を経てなお、その殆どが継承各社によって有効に用いられ続けており、当時の京阪電鉄首脳陣の先見の明は幾ら絶賛されてもされ足りるという事は無いだろう。
いささか話が脱線してしまったが、この写真の2600系は有名な“スーパーカー”こと2000系回生制動車をそのセールスポイントであるマグ・アンプによる分巻界磁制御の複雑さ故に昇圧困難な事から廃車とし、その後でその車体を流用して製造した昇圧即応型の代替新造車である。
それ故、種車となった2000系の車体バリエーションがそのまま持ち込まれ、あれやこれやと中途で改良・改善の為の仕様変更を繰り返した結果、当系列には無数の派生型が出現する事となった。
特に足周りのハードウェア面については、尋常ではない程の台車バリエーションをはじめとしてモデラー泣かせの細かな相違が存在しており、極端な例では4連で4輛とも全く仕様が異なる、という編成さえ存在する。
この系列の製造時に用意された新制御器は3000系で実績を積んだ分巻界磁位相制御式のもの(ただし定速度制御機構は省略された)で、複巻式主電動機による電力回生制動を常用するが、MG(Motor Generator:電動発電機)に制御電源を依存するその設計故に大容量のMG搭載が必須となっている。
それ故、車輛運用上の予備も兼ねる為に編成が2連から8連までバラバラでしかも固定編成化が困難な事から使用の如何に関わらずトレーラー全車にMG等の重い補機を装架しており、編成全体で見るとかなり重量級の車輛となってしまっている。
実際、性能的には大差ない筈の2200系ではMT比1:1で経済的な8輛編成が組めるのに、重い2600系ではMT比を5:3にしなければ急行運用等には充当出来ない由で、この系列による8連はほぼ他系列の検査時代走に限定されている。
当系列は、前述の通り検査時の代走を目的に2連から8連まで編成の組み替えが自由に実施できるグループ構成を取っており、理屈上全ての仕業に充当が可能である。
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