いわゆる更新記録(靖間 誠PC日記兼用)
西暦2005年12月分
西暦2005年12月8日 “雷K8W、再び”
色々あって、Thunder K8Wを再入手。
Rev.Aの板でCPUがRev.CGまで対応、つまりデュアルコア版を含むRev.Ex系は不可だったので、それなりにお安かった(苦笑)。
CPUは後輩のM君とOpteron 242(Rev.CG)*2基を差額交換して入手したOpteron 240(Rev.B3)*2基、メモリはPC2700 ECC-Reg. 256MBもの2枚で後は手持ちパーツ流用という構成でとりあえず組んだが、やはりこの板は良い板だ、と痛感した。
西暦2005年12月15日 “E7525”
先日ジャンクで入手していた、Intel純正のE7525チップセット搭載マザーボードであるSE7525GP2と、これは未開封の中古で買ったXeon 3.2GHz(FSB 800MHz版。ちなみに1基のみ)をZX10筐体に搭載してみる。
ジャンク故に付属品(それもリテンションの金具)欠品で色々問題があってその組み立て作業は難航したが、どうにか組み上げて電源を入れてみると、無事に起動した(安堵)。
で、動かしてみての感想なのだが、単発とはいえ2.6GHz駆動のOpteron 252をThunder K8WE上で使った後では、これは「凡庸」というのが正直な感想である。
とは言え、何しろ買った値段が値段だから文句は言えないし、普通に使う分にはこれでも充分高速ではあるのだが(苦笑)。
・・・まぁ、相手はGeForce7800GTX搭載もあってFF XIベンチ3の低解像度で9000オーバーを軽々マークするマシンだから、比べるのは酷なのだが。
西暦2005年12月21日 “不幸中の幸い”
会社から帰宅すると、連続稼働中のIntelliStationに入れていた250GBでSATAもののBarracuda 7200.8がいきなり死んでいた(泣)。
一旦システムをシャットダウン(システムディスクはCheetahを使っているのでOSは正常動作していた)してから色々試したが、どうもヘッドのシークが正常に出来ていない様で、管理領域のルート部分は参照可能だが、そこから下層のディレクトリに移動しようとするとそこで応答不能になる為、データサルベージも事実上不可能と判断し、このドライブの放棄を決定した。
このドライブについては、購入後約半年ほど酷使し続けていたのは確かだが、よもやこんなに早く駄目になるとは思わなかった。
同様に、いやこれ以上に酷使し続けてきた筈のCheetahやMASが(それどころか、かなり怪しい感じのMANやMAPでさえ)未だ平然と稼動し続けている事を考えると、所詮ATA系の廉価ドライブの耐久性などこんなものか、と思わざるを得ない。
同様の使用条件で酷使していた前任のBarracuda 7200.7(250GB SATAのNCQ対応モデル)は約1年の使用に耐えており(そこで中古屋に売却した)、個体差なのか、設計上の耐久性の差なのか、あるいはそれとも使用条件の差(多少以前より厳しくなっているのは確かである)なのか、その辺の絞り込みに必要な情報が少な過ぎる為、ここで断定は出来ないのだが、約半年というのはあまりに寿命が短過ぎはしないだろうか。
何にせよ、これで約200GB程あった格納データのロストが確定した訳であるが、肝心な部分については10月後半〜11月前半までのバックアップがあったのは不幸中の幸いであった。
ついでに、明日が給料日で代替ドライブの調達が可能なのも不幸中の幸いだったが、どうにも喜べない話ではある。
西暦2005年12月22日 “買い物”
本日は給料日なのでお買い物であります。
昨日のHDDの代替については色々検討したが、結局予算の都合からSeagate NL35.1の250GB(キャッシュ16MB)モデルを購入と相成った。
NL35.1はBarracuda 7200.8の選別品をベースに過熱時対策を講じた基板を搭載した高耐久性モデル(そうは言ってもその耐久性はエンタープライズ用途向けSCSIドライブとは比べものにならない位低い)で、信頼性が少しでもマシである事と、キャッシュ容量が倍増してディスクアクセス(特にヘッドシーク)が少しでも減る事を期待してこれを選んでみた。
本当はCheetahか富士通MA?の現行大容量モデルが欲しいところであるが、流石に同容量のBarracuda 7200.8/.9の3倍以上のイニシャルコストは、今の私にはとても負担できない(苦笑)。
また、代替HDDとは別に、帰省時にAT新2号機の更新を実施する為の機材を調達。
新2号機は、以前新1号機がThunder K8Wを導入する際に発生した機材を流用して組んだマシンで、今は母親が使用しているのだが、何しろ年1回の帰省時にしかメンテナンスできないので、組んでから2年でそろそろ陳腐化してきたことと、流石にHDD容量が少なすぎる(何しろBarracuda 36ESの18GB版だ)事から、今回思い切って内部の大改装を実施することにした。
基本的には今の普通のマシンとすることが主目的で、マザーボードはnForce4 SLI搭載のASUSTek A8N-SLI、グラフィックはGeForce 6600搭載のASUSTek EN6600/TD/128M/A、CPUはAthlon64 3200+(Winchesterコア)、メモリはECC付きのPC3200 256MB DIMM(IBMのWS/Server用) *2、HDDはBarracuda7200.9の80GBモデル、DVDドライブは日立のGSA-4082B、それに電源はNipronのPCSA-470P-E2S(密かにZippyの700W電源を入手していたので不要になった、実質350WのSSI-EPS12V電源)、という構成だが、この内新規購入(中古含む)はマザーボード、CPU、メモリ、そしてHDDの4点で、予算の都合上から普段なら絶対チョイスしないパーツばかりを選ぶ事と相成った。
で、帰宅後にこれらで仮組みを行ってみた訳だが、予想を遙かに超える快適さに愕然としたことであった。
何しろ私は腐ってもOpteronユーザーなので、Athlon64マシンが速い事は知っているつもりだったのだが、普通にパーツを揃えて普通に組んでこれだけの速度が出てしまうのだから、なるほど売れる訳である。
問題は、これだけ出来が良いにも関わらず、相変わらず大手メーカーがこのAthlon64系プロセッサを本腰を入れて売ろうとしていない事であるが、同クラスとされる、いや明らかに上位のIntel製プロセッサを搭載したマシンと比較しても勝ててしまう(断言するが、先日買ったSE7525GP2+Xeon 3.2EGHzに同じグラフィックカードと、より高速なHDDを搭載した場合と比べても余程快適だ)現状で、業界トップを標榜するような大手メーカーが10年1日の如くIntel製プロセッサだけをプッシュし続けるというのは、最早犯罪に近いのではあるまいか?
もっとも、サーバ機やワークステーション系では序々にAMD64アーキテクチャマシンが広まりつつあるようなので、その内状況が変わるのではないかとは思っているが、MPEGエンコードしか能が無い(それもIntelが開発元に金を提供して自社プロセッサに最適化させてやっとの話だ)上に無闇に高発熱(最大で150W近くになる今のPentium Dとかは論外だ)のNetBurst系プロセッサ(まぁ、それに特化した使い方をする分にはそれでもいいが)がデスクトップPC向けで最大シェアを占めるという状況は、地球にも懐にも優しくないので早いところ何とかすべきだろう。
・・・とはいうものの、ウチでは700Wだの600Wだのの大出力電源が暖房兼用(爆)でガンガン動いてるのだが(苦笑)。
西暦2005年12月23日 “忘年会”
S-FANのPzi先輩、それに同期のAmir君と蒲田駅前で、Pzi先輩と私の就職記念を兼ねた忘年会。
Pzi先輩はフィルタの会社に就職された由(おめでとうございます)で、相変わらずのご様子、Amir君は相変わらず残業続きの由だったが、こちらもいつも通りの様子で何より。
何故かジブラルタル・シャーシだの真空管アンプだの、オーディオの話で盛り上がった様な気がする(何しろ酔っていたので良く覚えていない(爆))が、とにかく楽しい一時であった。
ひとしきり飲んで話した後で、明日も仕事という(ご苦労様)Amir君と別れ、予定通り帰宅の足が無くなった私はPzi先輩と彼の部屋(京急蒲田の駅の近所にある)へ向かう。
何故か大学時代の下宿とイメージが変わらない(苦笑)彼の部屋で、色々と秘蔵の品を見せていただき、ついでにPC-9801-72・73・86の3種のCバスボードを有り難くいただく(多謝)。
スゴ録の最新機種が備えるXMB(クロス・メディア・バー)のあまりの便利さと、SACDの飛び抜けた高音質さというか出音の生々しさ、それにSONYの密閉型ヘッドホンの名作、MDR-CD3000の音の良さには、ただただ感心するばかりであった。
西暦2005年12月24日 “何故か三浦半島”
早朝にPzi先輩の部屋を辞して京急蒲田へ向かい、その場の思いつきで「三浦半島1DAYきっぷ」を購入して、三崎口へ向かう。
当初、600形4連の普通に乗ったが、川崎で2100形8連の特急に乗り換え、三崎口まで非常に快適なその乗り心地を堪能したことであった。
2100形は地下鉄乗り入れ運用を持たない為、都営浅草線の利用者である私にとっては普段なじみの無い形式だが、その一方で、関西圏で生まれ育った私にとっては、内装の配色はともかく2ドアオール転換クロスシートというそのレイアウトは、どこかほっとする構成である。
京急はその緻密かつ良く練られたダイヤ編成を含め、関西私鉄に酷似する列車サービスを展開しているのだが、これはやはり横須賀線との厳しい競争の賜なのであろう。
金沢文庫で増解結が行われ、京急久里浜以南で単線区間が入り交じるのは、それだけ南下するほどに輸送需要が少なくなってゆくという事だろうが、実際沿線の風景も京急久里浜以南では自然が一杯(苦笑)で、これだけ都市化が進んだ関東圏であっても、快速特急で三崎口から泉岳寺まで約1時間10分前後というこのエリアを生活圏として選択するのは勇気が要ることなのかも知れない。
三崎口の終端部は路盤が更に南へ伸びており、その直上の道路が跨線橋になっているばかりか、その向こうに変電所が設置されるなど、明らかにここから先へ延長する事を前提とした構造になっており、建設時点での計画が見えて興味深いが、果たして延長されることがあるのだろうか。
駅前の食堂でうどんを食してから、再び2100形の快特で堀ノ内へ。
今度の2100形はトレビジョン(Train Vision)と呼ばれる「無線LANによる電車内映像配信実験」システムの試験車で、中吊り広告が無く液晶案内パネルが吊り下げられていたが、音声はFMラジオで聞く様になっていて、車内の静かさと案内音声の必要性とのバランスが取られているのは中々良い感じだった。
堀ノ内からは新1000形4連の普通で浦賀へ。
三崎口へ向かう路線が本線扱いとされる現在では、緑に塗られた湘南電鉄以来の架線鉄塔が並ぶのどかな印象の路線だが、この路線こそは昭和5年の湘南電鉄開業時の本線であり、ここをあのデ1形の一党が往来していたのかと思うと感慨深い。
何というか山際に突っ込んだような形の浦賀駅で折り返して再度新1000形4連に乗車。
往路には気付かなかったが、沿線には海と、恐らくは軍用とおぼしき各種施設が見え隠れしており、この路線が開業以来海軍横須賀鎮守府と共にあったという歴史を思い起こしたことであった。
堀ノ内から1500形各停で金沢八景へ。
ここで新1000形4連に乗車し新逗子へ。
が、眠くなったと思ったら意識が途切れ、新逗子には着いたがそのまま往復してしまい、気付くと金沢八景であった(爆)。
で、時間が無くなってきたのでそのままやって来た2100形の特急に乗車し、横浜へ。
ほぼ満員だったが、幸いタイミング良く座れた。
横浜で降車後、PCの中古屋を回ってJR東海道線のE231系普通で東京へ。
いかにも新造されたばかり、といった風情の真新しい車内だが、E217系に準じた簡素というか殺風景な固定クロスシートは、あの京急2100形を見た後ではあまりに貧弱に映る。
比較的長距離を走行する近郊電車でこの仕様がオプションの上級装備(標準は通勤形と同じロングシート)だというのであるから果たしていかがなものかと思うが、逆に言えば転換クロスシート車が入れられない/主力を4扉ロングシート車とせねばならないほど混雑するというJR東日本の輸送事情の劣悪さが、基本設計を同じくするこの殺伐とした造りの固定クロスシート車からもほの見えてくる。
終点の東京で隣のホームに伊豆急行のアルファリゾート21が停車しているのを見る。
ご存じの方はご存じの通り、よりにもよって東急8000系で代替される事が決定したリゾート21シリーズの最終形だが、実際に眺めてみると意外とおもちゃっぽいというか安っぽい、というのが第一印象であった。
まぁ、80年代末に彗星の如く登場し、日本の鉄道車両デザイン、特に優等車のデザインにコペルニクス的転回を強いた近鉄21000系“アーバンライナー”を筆頭とする、同時期以降の近畿車輛の高密度かつ高品質なインテリアのデザインワークと比較すると、このアルファリゾート21をはじめとする、一連の80年代に東急車輌が自社でデザインを手がけた車両はどうしても内装の質感の点で見劣りする(それがどうにか改善されるのは90年代後半、そう、今日乗った京浜急行で言えば2100形登場以降の話で、それ以後でもチープな印象の車両が多い)のだが、これもその例外ではなく、造作が妙に豪華な分、私にはまるで田舎のキャバレーのように見えた。
好みは人それぞれだが、初代リゾート21のデザインがアレで、何でこうも改悪できるのかは正直謎である。
東京から山手線で秋葉原に出向き、FSB800MHz版Xeon用純正クーラー(ジャンク扱い)と、松下のLF-M821JDを購入。
前者は閉店が決まっているぷらっとほーむで発見したもので、探すと中々無いので在庫していた2個を両方共買っておいた。
後者はたまたま訪れたカクタソフマップのタイムセールとやらで安く販売されていたのと、殻付きDVD-RAM対応のDVD±R DL対応ドライブという事で買ってみた。
無論、新2号機にGSA-4082Bを供出した新1号機の補充用ドライブを探していた、という事があってこその話であるが、殻付き対応の純正リテール品(まぁ、LF-M821はリテールしかないけど)で殻無し専用だが機能的には競合するND-4550と3千円程しか値段が違わないのであれば、この選択も悪くあるまい。
本当はPlextorの自社製新型が欲しい所だったが、出ていないのでは仕方がない(苦笑)。
とりあえず、ピックアップがプアですぐ壊れるPX-716Aは金輪際ノーサンキューという事で。
西暦2005年12月25日 “リカバリ地獄”
吹っ飛んだBarracuda 7200.8のデータをバックアップディスクからリカバリ。
・・・100枚を超える数のDVD-Rから必要なデータを選んでコピーしていったが、いつまでも終わらない(爆)。
結局丸々一日かかって作業を行い、とりあえず使えるレベルまで復旧したが、ここから先が大変な感じである。
・・・今後はもう少しバックアップ方法とかも考えた方が良いのかも知れない。
西暦2005年12月28日 “本年最終”
ジャンクで、フロントベゼル破損という触れ込みのLogitec LCW-748Mを\300にて購入。
今更説明の要もないと思うが、これはSONYのCDU948Sを搭載する、外付けSCSI4倍速CD-Rドライブである。
フロントベゼル破損との事だったが、何しろCDU948Sなので、部品取りが出来ればそれでよし、との判断で購入してみた(苦笑)。
ところが、いざ開梱してみるとどこも壊れてはおらず、どうもキャディを入れて中途半端に止まった状態になっていた(前面シャッターが開いた状態で止まっていた)のを破損と勘違いしていたもののようだ。
まぁ、まだ何も焼いてテストしていない(SCSI派の私でも、ほいほいと外付けSCSIデバイスをつないでテストする環境は手元にもうない)のだが、通電したらあっさり普通にイジェクトされてシャッターも自動で閉まったので、多分大丈夫だろう。
かくして本年最後のお買い物はこのLCW-748Mという事になった。
そんな訳で本年記述の日記は本日をもって更新終了である。
今年は私にとっては激動の一年であった。
願わくは、来年こそは無事平穏に過ごしたいものである。
それでは皆様よいお年を。
西暦2005年12月29日 “鞍馬へ(歳末写真増量キャンペーン)”
前夜に、会社の忘年会を途中で抜け出してぎりぎり飛び乗ったJRの夜間高速バスで京都へ。
ちなみに姫路直行でないのは、チケットが取れなかったからだ(合掌)。
只、それだけではあまりに芸がないし時間も早過ぎるので、思いつきで鞍馬へ行ってみることにする。
早朝の京都駅前に降り立ち、地下鉄を乗り継いでまずは京阪三条へ。
蛍光灯にグローブが付き、低座面のシートが並ぶ市交1000系の車内を見て、関西へ還ってきた事を実感する(苦笑)。

京都市交通局1000系車内。外観は営団(東京メトロ)半蔵門線8000系に毛が生えた様な
電車だが、車内には関西私鉄の香りが色濃く漂う。
京阪三条からは2200系で出町柳へ。
出町柳では、京阪に只一本残された3000系特急8連が停車していて、非常に乗りたかったのだが、ぐっとこらえて叡山電鉄乗り場へ。

3505前面。左側前面窓下にダブルデッカー登場10周年を記念した副標識を掲げている。
本当は必要ないのに、敢えて幌枠を取り付けた姿に、京阪のこの電車への愛を感じる。
それにしても、つくづく3000系は美しい電車だ。
前面窓に大きめの曲面ガラスを使用した電車には、関東の京王帝都電鉄5000系や近鉄5200系など、不思議と佳品が多いのだが、この3000系はその中でもとびっきりの美人だと私は思う。
長過ぎず短過ぎない、ほどよいサイズの車体に2段式の狭窓をずらりと並べ、伝統の特急色を纏ってカーブだらけの本線上を定速度制御機構を駆使して疾走する、この電車の魅力については語り出すときりがない(苦笑)。
私にとっては1次車が同年配、しかも受験浪人で京都に住んでいた頃に幾度となくお世話になった事もあって、この電車については特に思い入れが強いのだが、それだけに8000系の導入で58両中50両が経年僅か20年足らずにして廃車に追い込まれてしまったことが未だに残念でならない。
もっとも、その内の先頭車については16両が富山地方鉄道で、2両が大井川鐵道で、それぞれ再起しているし、廃車後解体に追い込まれた32両についても主要機器(例えば、3500形が履いていた汽車製造/川崎重工製シンドラー式台車の最終形態であるダイレクトマウント式のKS-132/132Aは生みの親である川崎重工(日本初のエアサス台車(KS-50)を世に送り出した事でも知られる汽車製造会社は1972年に川崎重工に吸収合併された)の手で大改造を施されてKW-79へ生まれ変わり、2600系のKS-63系エコノミカル台車の淘汰に有効活用された)は様々な形で再利用されているのだが、それでも先々代特急車である1900系の過半が未だに現役であり続けている事を思うと、その処置は通勤車への改造が難しいという事情があったにせよ、あまりに惜しい。
8000系第1編成のデビューがバブル経済の崩壊後であったなら、8000系大量増備→3000系早期廃車とはならず、3000系内での編成組み替え(6連1編成を解体し、現在の3655の様に運転台付き車両を2両単位で組み合わせて2組から中間車2両を作れば、残る6連編成4本を7連化する為の中間車4両が抽出できる)による全編成7連化と、それによる不足1編成の8000系第2編成投入による充足、という形になっていた可能性もあったのだろうが、消費促進のために使い捨てが奨励されてすらいたあの時代においては、それはむしろ非合理的な考えであったのかも知れない。
そんな感傷に浸りつつエスカレータで地上に出て、叡山電鉄の改札口を通ると、デオ723が待ちかまえていた。

叡山電鉄出町柳駅ホーム。ここは受験浪人時代(15年前)とたたずまいが変わっていなかった。
私の浪人時代は、ここにはあの名車デナ21形が健在で、暖かみのある管球を車内に輝かせて待ちかまえていたのだが、あれから15年、駅のたたずまいこそ変わらないものの車両はぐっとモダンなデオ7x0シリーズ以降ばかりになってしまった。
しかも、良く見るとこのデオ723、いつの間にか昔懐かしいビルドアップイコライザー台車を捨てて京阪1900系(後期の新造グループ)が履いていた重厚な汽車製造KS-70シンドラー式台車に履き替えており、車体が小型でしかもシンプルな造りのため、なんというかひどくアンバランスな感じになってしまっている。
今時吊り掛け駆動もあるまい、という事なのだろうが、少々驚かされたことであった。
この電車に乗るのも一つの選択肢であったが、方向幕を見ると八瀬遊園行きだったので、しばらく待って後発の鞍馬行きに乗車することにした。
寒いホームで待つことしばし、やって来たのはデオ900形“きらら”第2編成(903-904)であった(喜)。
洛北の地を走る電車となると何故か俄然気合いが入る近畿車輛(あの京阪京津線80形も同社の作品だ)がデザインを担当し、今は亡き武庫川車両が製造を担当したこの電車は、小型車ながらアーバンライナー以降の近畿車輛の車両デザインノウハウが凝縮された、本当に良くできた車である。

デオ900形“きらら”。“パノラミック電車”の名の通り、ガラス張りの温室の様な造作である。
この電車のデザインコンセプトについては登場当時の鉄道ファン誌に掲載された車両ガイド中のデザイナー氏の文章に詳しいが、デナ21という、半世紀以上に渡ってこの地で活躍した素晴らしい電車(京都電灯・鞍馬電鉄時代に贅を尽くして建造され、小柄で地味な見かけと裏腹に、チーク材をふんだんに使ったシックかつ優美な内装で知られた)の走った路線に投入される観光用電車という事で、当時としては破格の高品質な電車としてデザイン(その検討過程において、ありがちかつ安易なレトロ電車やデコレーションを施した電車(確かその前の月の鉄道ファン誌で江ノ電のウィーン風電車が紹介されており、担当者による自画絶賛が掲載されていた(苦笑))は「所詮イミテーションはイミテーションで、歳月による風化には耐えない(意訳)」として否定されたという)されており、まるで温室のような採光窓のある大きな側窓、紅葉鑑賞を重視してクロスシートとベンチシート(ロングシートと逆向き(つまり窓向き)に配されている)が組み合わされた特徴的な座席配置、武庫川車両の親会社である阪神電鉄の301系(世間では3011形と呼ばれたりもするが、本当はこちらが正しい。阪神初の大型高性能車にして同社唯一の2扉クロスシート車)を思わせる連結面の曲面ガラス、そして叡山電鉄の伝統に従い、楕円形の鋳物が奢られた“きらら”のロゴプレート、と使用会社と製造会社それぞれの歴史やルーツに敬意を表しつつ観光電車としての最善を尽くした、何というか玄人受けのする良い電車である。

阪神電鉄301系を思い起こさせる、連結面の曲面ガラス窓。
ちなみに、だからかどうか、この電車は1998年度のローレル賞を受賞している(苦笑)。

運転台直後に誇らしげに、けれども慎ましやかに掲げられた、ローレル賞記念プレート。
にもかかわらず、この電車は何故か室内灯が蛍光灯剥き出しで初めて見て「?」となったのであるが、しばらく考えて、デナ21の管球もこうして剥き出しで天井に取り付けてあったのを思い出したことであった。
まぁ、これだけガラス張りだとグローブを付けると室内の照度が不足するという事もあるのかも知れないが、白熱球色の蛍光管(南海がラピートで使用している)だともっと映えるかもしれない。

特徴的な配置の座席レイアウト。通勤通学輸送(!!)にも使われるので通路幅が広い。
蛍光灯が剥き出しなのと、思い切って中吊り広告が排されている事に注目されたい。後日
気付いたが、明かり取り窓という意匠は、戦前の阪神が擁した小型車群の象徴であった。
なお、余談ながらこの電車の“きらら”というネーミングは伊達や体裁で付いたものではなく、沿線の雲母坂(修学院付近から比叡山に登る最短ルートの坂道。北嶺の僧兵が上下した由緒ある道で、ある意味叡山本線+比叡山ケーブルのルーツとも言える)に由来しており、ここでも叡山電鉄の歴史を重んじる姿勢が窺えよう。

京都電灯時代から続く、伝統の楕円形鋳物製ナンバープレートを模した“きらら”ロゴプレート。
そんなこんなで、かなり嬉しくなってこの電車に乗車し、鞍馬へ。
ゆったりとした座席の快適さと懐かしい沿線の風景を楽しむ間もなく、軽快に走る電車は叡山本線と鞍馬線のジャンクションである宝ヶ池に到着。
鞍馬線鞍馬行きホームの端に京都市電乗り入れ時代の低床ホーム跡がまだ残っているのを見て、ちょっと安心(笑)。

元田中から宝ヶ池まで京都市電が乗り入れしていた時代に使われていた低床ホームの跡。
その後も電車は快調に走っていたのだが、複線区間の終点となる二軒茶屋あたりから天候が怪しくなり始め、市原、二ノ瀬、貴船口を経て終点鞍馬につく頃にはすっかり銀世界の中となってしまっていた。

二ノ瀬における雪中の離合。対向列車はデザイン電車「こもれび」(デオ815-816)であった。
・・・それにしても、何という景観であろうか。

撮影名所として知られる貴船付近の鉄橋上にて。紅葉の時はさぞかし見事であろう。
雪化粧のお陰で魅力が割り増しになっている気もしないでもないが、市原以北の景色は、確かにこの電車が似つかわしい、出町柳−宝ヶ池あたりの風景からは想像も付かない程のものであり、なるほどこれなら天狗が棲んでいると言われても納得できそうな感じである。

貴船付近の車窓風景。平安時代ならさぞや深山幽谷の態をなしていた事であろう。
終点の鞍馬は古風な駅舎がある以外は特に目立った何かがある場所でもなく、鞍馬寺に用があるわけでもないので、折り返し同じ電車で出町柳に戻ることにする。

鞍馬駅。鞍馬電鉄開業以来の駅舎で、寺院風の様式で建てられている。
・・・いや、ここには大変なものが一つあった。

鞍馬駅に保存されている、デナ21の前頭部。これではまるで狩りの獲物の剥製である。
そう、昭和初期以来廃車まで、ずっと働きづめだったデナ21形21の前頭部だけが、この駅には保存展示されているのだ。
私にとっては思い出深い電車なので保存されたのは喜ばしいが、この電車の最大の魅力がその客室内装にあった事を思うと、どうして1両丸ごとの保存が出来なかったのだろうか、と考えずにはいられない。
あれだけ長く働いた功労者であれば、単行仕様の原型に復元して保存しても罰は当たらなかったのではなかろうか。
せっかくの保存なのだが、何というか古い友達の生首を見せられた様で、あまり良い感じがしないのは確かである。
そんな訳ですっかり意気消沈して出町柳へ戻る。

京阪8000系8800形ダブルデッカー車。時代祭の行列が側面に描かれている。
時間を計算して3000系が淀屋橋から戻ってくるのを待とうかとも思ったが、その気力も失せていたので、何も考えずに停車していた8000系淀屋橋行き特急のダブルデッカー車(8800形)に乗車。

8800形ダブルデッカー車の車内。関東ならほぼ確実に特別料金を取られるアコモデーションである(苦笑)。
何やら惰性で乗ってしまったが、8000系も流石に3000系を駆逐しただけあって、本当に良い電車である。
外観、特に前面については未だデザイン処理についてもう少し何とかならなかったのか、と思う部分があるのだが、こんなにも凄まじい車内設備を備えた電車に特別料金無しで乗れる、という事実の前にはその辺の不満もどこかへ吹き飛ばされてしまう(苦笑)のも確かである。
ちなみに、最近ではこのダブルデッカーばかりがクローズアップされてしまっているが、伝統の“テレビカー”も数を減じこそしたものの未だ健在である。

京阪特急伝統の“テレビカー”表記。昔の3000系(3500形)では朱文字だったが、今は銀文字になっている。

8700形車内。手前左側の扉は公衆電話室で、通路上部の低くなっている部分にテレビ受像器が納められている。
先日京浜急行の2100系に乗車した時、その車内設備に何ら驚きがなかったのだが、よくよく考えてみると、1990年代初頭にはもうこの8000系に出会っていたのであるから、それもある意味当然かも知れない。
かくして8000系淀屋橋行き特急は静かに加速を始め、三条を経て四条へ。
ここで対向列車を見ると3000系特急だったのだが、悔しいのでこれは見なかった事にする。

淀屋橋から戻ってきた3000系8連特急。不思議と更新後のこの電車にはご縁が無い。
七条を発車後、昔はアナウンスされていた「これから約30分で大阪京橋に到着いたします」という放送が無いので、アレ? と思っていたら、列車は丹波橋・中書島と立て続けに停車。
・・・そういえば七条−京橋間ノンストップはやめたんだっけ。
ここでも時代の変化を見せつけられて、少々凹む。
その後はあまりに快適な座席の座り心地に誘われて、うとうとし始め、気がつくと京橋を発車していた(笑)。
淀屋橋で下車後、一応前面を記念撮影。
ナンバーは8060だから第10編成、つまり8000系最終増備編成であった。

8060前面。それにしても、この塗り分けラインの処理は何とかならないものであろうか。
淀屋橋からは御堂筋線で梅田へ。

大阪市交通局1号線(御堂筋線)淀屋橋駅構内。戦前の開業期以来のドームに蛍光灯が燦然と輝く。
東京では銀座線を筆頭にどこも狭苦しい駅ばかりなので、こういう広壮な駅を見るとほっとする。
阪急もJRも何やら大改装工事が進行中で大混雑(まぁ、混むのはいつもの事だが)の梅田(大阪)からは新快速で姫路へ。
例の事故のせいか207系の塗装変更が急ピッチで進められているらしく、従来塗装の編成には1本しかお目にかかれなかった。
聞けば従来塗装の207系はNゲージの模型も生産休止(と言うか自粛)だそうだが、あれほどの事故なればそれも致し方ないと思う反面、それは何かが違うのではないか、とも思う。
姫路着後、迎えに来た両親の老けぶりに愕然とする。
・・・そうか、もう2人とも65越えたんだよなぁ(溜息)。
父の愛車の日産アベニール(2.0si:初代)も老朽廃車で日産ウィングロード(1.8lの最新モデル)に置き換わっており、ここでも時間の経過を痛感させられた事であった。
西暦2005年12月30日 “継承”
母に、伯父から託されたものだと古いカメラを渡される。
・・・キヤノン7、それも50mm F0.95付きですか(大汗)。

キヤノン7+純正50mm F0.95(フード付き)。レンズが化け物のようにでかいのだが、ボディも露出計内蔵のせいで負けじとでかいので、不思議とバランスがとれている(苦笑)。
ご存じの方も多いかと思うが、このキヤノン7はキヤノンが世に送り出したライカのスクリューマウントに対応するレンジファインダーカメラの最終進化形態とでも言うべき機種で、50mm F0.95はその専用レンズ(これだけ強度の問題がある為か、専用のバヨネットマウントになっているので、キヤノンVIとかには付かない)として開発された、「人間の目より明るく見える(注1)」怪物レンズである(苦笑)。
このレンズは、当時の技術を持ってしても量産が難しかったそうで、職人さんがレンズを全て手で磨いて生産した(注2)という恐ろしい話が伝わっているのだが、こうして現物を眺めると、それも納得できる怪物ぶりである。
かくして置き引きにあったT70以来大方8年ぶりに銀塩カメラを入手した訳であるが、さて露出計(内蔵のはセレンを使ったタイプなので当てに出来ない)とかどうしたものか・・・。
(注1)但し解放で撮ると被写界深度が滅茶苦茶浅くなるのでピント合わせが激烈に難しくなる。事実上ポートレート専用。
(注2)今ならCADとNC工作機械等の連携で何とでも出来る話だが、何しろ東海道新幹線も無い頃(“パーラーカー”ことクロ151が登場した翌年のデビューである)の設計であれば、この手の超大型レンズを使う光学設計は時間をかけて計算すればどうにか出来ても、実際の製造は職人芸に頼る他無かった訳である。ちなみに、そこまでやっても無理が避けられなかったらしく、このレンズは収差が結構大きい。
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