いわゆる更新記録(靖間 誠PC日記兼用)

西暦2005年1月−3月分


西暦2005年1月1日 “謹賀新年”

 新年明けましておめでとうございます。

 本年も当サイトをよろしくお願いいたします。


 本日は近鉄で吉野の金峯山寺へ。

 昨日の段階では法隆寺にでも行くか、という話だったのだが、昨年夏の世界遺産指定のお陰で1年間秘仏の蔵王権現像を特別公開しているという事が判った(告知ポスターが貼ってあった)ので、急遽予定を変更した。

 この際いっそ車で行くか、という話もあったが、昨日の今日という事で雪が怖くて電車での移動と相成った(苦笑)。

 ちなみに往路は近鉄奈良−30000系“ビスタEX”(通常席)−大和西大寺−22000系“ACE”−橿原神宮前−16010系−吉野、復路は吉野−16000系−橿原神宮前−30000系“ビスタEX”(2階席)−大和西大寺−12600系−近鉄奈良、という構成で、以前乗った時とそんなに形式は変化無いのだが、流石に内装の更新は進んでいて、全車ACEに準じた新型内装になっていた。

 これはどうやらバリアフリー法の関係で車椅子対応工事を行う必要があって、それと併せて工事が行われたものらしく、車椅子席側の通路扉が幅広の両開き扉に変更されている事と、号車表示等がLED表示に変更されている事が目に付く。

 以前16000に乗車した時は本当の網棚がまだ残っていたが、この関係で今回はアルミ型材を組み合わせた今の近鉄のスタンダードタイプに置き換わっていて、ついでに編成も4連の阿倍野橋寄り2連に新型の16400系を組み込んだものとなっていた。

 これは恐らくバリアフリーの観点では対策を徹底した16400系の方が望ましい為で、在来車だけの4連を極力作らない様に配慮しているものと思われるが、予約の都合で往復とも新車に当たらなかったのは少々悔しかった(苦笑)。


 さて、肝心の蔵王権現だが、秀吉による蔵王堂再建以来400年に渡って厨子の扉を固く閉ざしてきた(今回開けるまでには役行者の1300年忌に伴う特別公開と蔵王堂の修理完成時の寄進者向け特別公開時の計2回だけしか開いていなかった由である)だけあって、三体とも製作当初の極彩色をほぼそのまま保っており、全高約6m以上というその巨躯の迫力もあってただただ圧倒された事であった。

 この寺はかつて修験者による山嶽信仰の最大の拠点であった事で知られ、以前訪れた時にはその少々異様なノリにたじろいだのだが、こうしてその中核になる蔵王権現像のあり方を知ってしまうと、それがひどく自然なあり様であった事が今更ながらよく理解出来る。

 新年早々、本当によいものを拝ませて頂いた。


西暦2005年1月2日 “厳島神社国宝展”

 国立奈良博物館で本日より公開の「厳島神社国宝展」を観覧。

 昨年秋の台風で国宝の左楽房が倒壊し、合わせて30棟に及ぶ貴重な建造物が破損した厳島神社を救済すべく急遽企画された特別展との事であるが、何より例年1月4日以降にならねば開館しなかった奈良博が、今年は本日から開館という事で展示の趣旨はともかく観覧する側としては本当に喜ばしい。

 今回の特別展では、当然の様に高名な平家納経の展示が中核となる訳であるが、流石に33巻全てを長期にわたって展示する事は保存上出来ない為、奈良と東京で17巻ずつ、それも奈良の場合は5期に分けて5巻ずつ展示するという変則的な形態が採られている。

 その関係で、当然というか各期それぞれに目玉になる巻が分散されている(苦笑)のだが、第一期には発願者である平清盛による願文(巻末のみ。巻頭は東京で公開)が含まれており、残りも私達には未見の巻ばかりだったので、非常に楽しく観覧させていただいた。

 特に、清盛の筆跡は非常に高い知性と意志を感じさせる力強く個性的なもので、彼が武士団の棟梁であると同時に高度に洗練された貴族でもあったという事がひしひしと伝わってくるものであった。

 筆跡にはその人物のあり方がかなり反映される所があるが、今回の清盛の願文と、別室で展示されていた「談山神社の神宝」中に伝えられた信長の黒印状、それに秀吉の朱印状を見比べてみると、同じ武士、それも同じく日本を支配した最高権力者であってもここまで違うものなのかと考え込んだ事であった。

 まぁ、成り上がり中の成り上がりである秀吉の書に何のインテリジェンスも感じなかった(下品な字だったし)のは予想通り(その一方でその書には彼の能弁と心配りの細やかさも表出しており、彼が天下人となれた所以が伺える)だが、簡潔にして明快な合理主義者と伝えられる信長の書が、そうであるが故に彼の持つ根底における田舎臭さ(それは良い悪いとは別の部分の話で、そんな彼だからこそ力任せに中世を打ち据えられたのもまた確かである)を強く漂わせている事に気づいたのは収穫であった。

 余談になるがこの展覧会、初日故に地元のNHK奈良放送局が取材に来ていたらしく、実家へ帰宅後TVを見ていた父によれば「夜のニュースでお前の顔が映っていた」由である。

 思い返してみると、そういえば何やらビデオカメラで撮影しているスタッフがうろうろしていた様な気がするが、眼前に並んだ珠玉の宝物群を観るのに必死で全然意識していなかった(苦笑)。

 ま、テレビに映るというのはそういうものなんだろう。


西暦2005年1月14日 “2型55号”

 2型55号、思い出した様に竣工。

 ASC-19160・AHA-2930U2・SATA2RAID-PCIX・SPECTRA 8400の各ページの新設と、例によって各所の細部修正を実施。

 いい加減Over the Rainbowを何とかしたいが、例によって作業は遅々として進んでいない(合掌)。

 実は他にもグラフィックカード(Intergraphの大昔のOpenGL板であるRealiZm II ZX25)とか未着手の項目が幾つかあるので、それらも含めてその内何とかしたい所である。


西暦2005年1月15日 “さらば、Opteron 140”

 色々あってZX10に入れていたK8NW PROとOpteron 140その他を売却。

 理由はお察し下さい(ヲ)。


 ・・・冗談はともかく、結局私は最近のこういうノリの板は相性が悪い事が良く分かった(苦笑)。


西暦2005年1月17日 “DIGI 96/8 PST、再び”

 バイト先の会社(書き忘れていたが、新年から秋葉原周辺の某社で働いている)の昼休みに食事に秋葉原へ出て、Mac系の某ショップでRMEのDIGI 96/8 PSTをゲット。

 あの今でも中古がウン万円もする結構なお値段(それでもRMEのラインナップでは入門用的な位置付けにある(爆))のオーディオカードだ。

 今頃なんでそんな高価なものを? とか、生活費も危ないお前が何故? とか思われた方もおられるかも知れないが、当然ながらこれには裏がある(苦笑)。

 何の事はない、ジャンクで格安にて出物があったので買ったのだ。

 Mac系の店、という段階でピンと来た勘の良い方もおられるだろう。

 そう、どうやら3.3V駆動のPCI-XスロットしかないPower Mac G5に挿して動かなかった(実はこのカードは最終期のもの以外は原則的に5V駆動専用なのに、何故か不思議な事に3.3/5両対応のものと同じカードエッジ端子になっていて、3.3V専用スロットに挿すとそもそもマシンの電源が入らなくなる)せいで壊れていると判断されたものらしいのだ(苦笑)。

 まぁ、メーカー自体積極的にアナウンスしていない話だから店側が知らなくても不思議はないが、お陰で私はお宝にありつけた訳である(苦笑)。

 帰宅後早速、Thunder K8Wの1本しかない32bit PCIスロットに挿して動作チェックしたが全く正常に動作しており、これは本当に良い買い物であった。

 そうそう、肝心な事を書き忘れていた。

 私が店で支払った代金だが、実は何と驚きの\500であった。

 流石に3匹目(今回のは以前Revolution IV-FP for Macを\1,000で買って以来の大当たりなので、次があれば3匹目という事になる)のドジョウはいないと思うが、こういう掘り出し物があるからジャンクコーナー巡回は止められない。


西暦2005年1月27日 “機材の寿命”

 本日は風邪で熱を出して一日ダウン。

 で、夜まで寝込んでようやく起き出して先日来の作業を再開しようとした所、いきなりPC-9821Ra300/M40とFW-6400GXR/150/WSがお亡くなりになる(号泣)。

 理由は双方とも不明だが、前者はCPUを入れ換えて動作確認中に起動しなくなり(CPUファンが回らなくなって電源スイッチ長押しで電源が切れなくなった)、後者はいきなりFDCが異常動作する様になった。

 後者はまぁ、ジャンクを再生していた訳だから今壊れてもあまり文句が言えないし、取りあえず代品の調達は(440GX限定でなければ)それ程難しくはないのだが、前者は代品の調達が次第に困難になりつつあるPC-9821だけに頭が痛い所である。

 冷静に考えればどちらも大体同じ位の時期(1998年頃)の製品であるから、製造から7年で天寿を全うした、と考えられなくもないが、それでも財政難の折、非常に困った問題である事は否定出来ない。

 さて本当にどうしたものかねぇ・・・(溜息)。


西暦2005年1月28日 “代品”

 秋葉に出向いてABITのBE6を中古で購入し、その後某ショップのジャンクコーナーでレジスタードの128MB PC100 SDRAM (ECC付)を3枚購入し、更に別の店で動作保証無しのELSA GLADIAC 525(GeForce Ti4200・500MHz 64MB DDR SDRAM搭載のAGP 2/4x対応グラフィックカード)を格安価格にて購入。

 GLADIAC 525はコンディションから冷却ファン関係のトラブルと判断して買ってみたが、帰宅後確認した所やはりというかクーラーの固定用バネ付きプラスティックピンの先割れ部分が折れていて、圧着が不十分と判明した。

 幸い手元に同タイプのバネ付きピンがあったのでこれと交換して事なきを得たが、グラフィックカードに関するこの辺の構造欠陥というかトラブルは何とかならないものなのだろうか。

 一通り買う過程で98中古を見て回るが、やはり予算的に厳しい現状ではどうにも出来ない。

 現状の狙い目はPC-9821Xv20/W30かPC-9821Ra20/N30(本音としてはPC-9821Rv20/N20が欲しいが流石にこれは出物が全くと言って良い程無いし、あっても予算的に折り合いが付くとは思いがたい)だが、Xv20は拡張性抜群な反面パワーアップの手間が結構かかる(ソケット7系では最強であるメルコのNV4下駄を入手してK6-IIIE+の550MHz品を搭載し、600MHz駆動するのが最速という事になるが、今や両方とも入手至難である。但し、実用上はK6-III 400MHzで充分すぎる程速い)し、Ra系数あれどRa20/N30だけは値段が高い(理由は下駄があればITF書き換え無しでTualatinコアのPentium III-Sまで搭載可能な為)ので、双方共に微妙に選択肢として難しい部分を抱えている事になる。

 まぁ、手に入るのであれば四の五の言っていられない今日この頃ではあるのだが(苦笑)。


西暦2005年1月29日 “ケミコン”

 唐突にジャンクの出物があったので、SUPER MICROのPIIIDMEを購入。

 ま、買える程度の値段になった訳だから、正常ではないのだろうなと思って値札の注意書きを読んでみると、ケミコン不良らしく動作が不安定とあった。

 元々PIIIDMEはMRH-S(Memory Repeater Hub for Sdram)というDRDRAMプロトコルをPC/100 SDRAMプロトコルに変換するチップに問題があって結局それが原因で販売終了となったという曰く付きの一品(この辺の経緯は最初の方からこの日記をご覧の方ならご記憶の事かと思う)で、Thunder2500と並ぶSlot1末期の難物なのだが、実はこの時期のSUPER MICROは「鉄板」とまで評されたP6DBE/DGE等で液漏れを起こす粗悪ケミコンを搭載するなど色々迷走していて、どうもこれもその例に漏れなかったという事らしい。

 現物を見る限りは各ケミコンの頭頂部の弁の部分がコーンヘッド状態(滝汗)になってはいるものの致命的な液漏れを起こしておらず、また不安定とは言いながらも起動はするという事なので、暫く悩んだ末に購入した。

 無論、これらのケミコンの交換のアテがあったからこそ買った訳だが、生け贄として考えていたのは以前ジャンクで買って死亡判定したThunder2500であったりする(笑)。

 で、帰宅後実際に目に余る状態のケミコンを幾つか60W のハンダごてを用いて引き抜き、吸い取り線でスルーホールを綺麗にした上で、Thunder2500から抜いた同定格のケミコンを再実装。

 ・・・取りあえずちゃんと起動し、Windows 2000も動作する様になった(喜)。

 CPUがPentium III 450MHz、メモリが128MB*2=256MB、と貧弱な事この上ないが、流石に840チップセットの動作は軽く、それぞれ倍にすればそこそこ動作するのではないかと思う。

 ちなみにこの過程で判明したのだが、Thunder2500のボード上に実装されたケミコンの大半は長野のルビコン製で、しかもそのラインナップ中でも高級品とされる機種(ZA/ZLシリーズ。容量にもよるが、1個の小売り価格が数百円〜千円前後するらしい)が重点的に搭載されている事が判明した。

 ・・・道理で法外に高かった訳である(苦笑)。


西暦2005年1月30日 “交換”

 ジャンク扱いのPentium III 450MHzを追加で購入しPIIIDMEに搭載するも、Windows 2000が起動せず悩む。

 そこで原因切り分けの為にこのCPUを1発だけSlotの#1に挿して起動すると動作し、#2に1発だけ挿して起動しようとするとうんともすんとも言わないので、#2の方のケミコンが駄目になっている可能性が極めて高いと判断し、こちらの方の10V 1000μFのケミコン10本を全てThunder2500から供出した同定格のルビコン製ZLシリーズに交換し、再度Dual構成で組み直して起動してみる。

 ・・・何事もなかった様にWindows 2000が起動し、タスクマネージャには2発分の負荷表示が現れた(笑)。

 どうやら、CPU#2のケミコンが駄目だった様だ。

 そんな訳で現在このPIIIDMEを組み込んだZX10は快調に動作しているが、よくよく考えてみるとこのマシンはCPU・マザーボード、DIMM(結局128MB*4=512MBにした)、それにグラフィックカードと主要部品の大半がジャンクパーツで構成されており、何やら極めて複雑な心境ではある(苦笑)。


西暦2005年2月3日 “Breakdown”

 ここ1週間以上治りきらないままであった風邪が悪化し、せっかくの休日(現在木金が休みのシフトで働いている)を丸々一日以上寝込む。

 このまま放置するとやばいで済まない状況なので、明日には何としてでも病院に行かねばならない。

 やはりここしばらくの気温低下が悪影響を及ぼしているのだと思うが、正直ここまで悪化するとは思わなかった事であった。

 桑原桑原。


西暦2005年2月5日 “Breakdown II”

 結局風邪は完治せず、それどころか体温を測ると39.8℃という恐ろしい状態になっている事が判明して(道理で足元がふらつく訳だ)結局バイトを休んだ。

 何でこんなに悪くなったのか判らないのだが、昨日病院で貰った薬自体は効いている様なので、単純に体力が落ちて抵抗力が無くなっているのかも知れない。


西暦2005年2月6日 “訃報”

 風邪でダウンしてベッドから離れられずに過ごしている(結局会社を2日休んでいる)最中に、母からの電話でこの4日に母の姉、つまり私からすれば伯母が亡くなられた事を知らされる。

 お歳がお歳(私の母より20歳位年上だった。思えば祖母は恐ろしく多産であった)だけに、来るべきものが遂に来たというか、天寿を全うされたという事なのだと思うが、長年連れ添った伴侶を喪った伯父(実はこの人、当時2歳の私に「民営鉄道の宅地開発について」(当人にはさっぱり記憶がないが子守歌代わりに母に読ませていた由で、お陰で3歳にして内容を理解せぬままに小林一三や五島慶太、それに渋沢栄一の名を諳んじていた(爆))だの「私鉄・専用線の蒸気機関車」(このお陰で鉄道国有化前の古典機の形式を国鉄制式機の形式より先に憶え、「北海道や九州の工場や鉱山の片隅には大概こういう古い機関車が転がっている」と長い間信じ込む原因となった)だのが延々掲載され、私鉄を「○○陸運局管内」という区分で法的な側面を基準に紹介する様なひどくマニアックな本(毎日グラフ増刊 日本の私鉄 1969/3/31 毎日新聞社:流石にこれをマニアックではないと断言出来る人はそう多くはないだろう、多分)を与えて鉄道趣味を仕込み、更に小学生の私に兵器趣味を仕込んだ張本人である)の悲しみはいかばかりのものであろうか。

 今は只、伯母の冥福と残された伯父の心の平穏を切に祈るばかりである。


西暦2005年2月7日 “B型インフルエンザ”

 幾ら薬を飲んでも咳が止まらず、体温が上がりっぱなしというかなりやばい状態なので、朝にどうにかベッドから抜け出し、這う様にして行きつけの内科(今住んでる部屋から100m以内にある)まで足を運び、診察を受ける。

 で、これはインフルエンザの可能性がかなり高い、という事で鼻の粘膜サンプルと肺のレントゲン写真を撮影して貰った所、最初の風邪で体力を失った所で二次感染でB型インフルエンザに感染したものと考えられる、との診断が出た。

 そんな訳で前にも増してきつい薬が処方され、当然ながら出勤も当分(少なくとも体温が平熱に戻るまで)は控えて部屋で安静にしている様に、とのお達しが出る有様で、中々厄介な事になってしまった。

 まぁ、それでも肺炎でなかったのは不幸中の幸いだが、診察中に食事の栄養バランスが崩れている事が指摘されたのはちょっと堪えた。

 ・・・最近、コスト優先で随分ひどい食事をしてたからなぁ(溜息)。


西暦2005年2月8日 “B型インフルエンザ II”

 風邪はようやっと薬が効いたのか小康状態。

 それでも体温は37℃オーバー(朝の検温時で37.3℃。ちなみに以前横浜時代に風邪を引いた際に持っていなくて懲りたので、体温計はテルモのC202電子体温計を買って使っている)で、全く油断出来ない状態が続いている。


 金曜からこっち、PCをマトモに触れておらず(ビデオ録りとかの関係で起動はずっとしていたが)、おまけに携帯電話のバッテリーが切れてしまっていた(そういえば暫く充電してなかった(汗))為に、メール・携帯共に森瀬君の至急の連絡が受信出来ていなかった事が判明。

 えらい事になった・・・・・・。


西暦2005年2月10日 “B型インフルエンザ III”

 悪夢の如きインフルエンザの活動も漸く収束に向かいつつある模様。

 これならば、土曜からのバイトに行けそうである。

 しかしそれにしても、ひどい目にあった。

 油断したつもりはないが、通常の風邪との二段攻撃にはつくづく参った。


 そういえば母からのメールによれば、やはりというか伯父の落胆ぶりたるや見るに忍びない状況らしい。

 それ故今は母が大阪と姫路を足繁く往復しているとの事だが、こればかりは東京在住の我が身が恨めしい限りである。

 大阪や神戸に勤務の頃であれば、私が赴けたのであるが・・・。

 ・・・もっとも、インフルエンザの症状が出ている時に抵抗力の弱い老人に接する等言語道断であるから、結局役に立たないのは一緒だろうが。

 感染源に事欠かない通勤電車を利用する以上、この辺は宿痾と諦める他無いが、今の技術で電車の空調システムに細菌を排除/死滅する様な機能を付加する事は出来ないものなのだろうか?

 ふと、そんな事を考えたりした。


西暦2005年2月19日 “2型56号”

 体調が漸く回復したので2型56号、竣工。

 まだ低空飛行だが、取りあえず。

 例によって細部修正がちろちろ、といった感じだが、「音の源へ」に「Sound BLASTER Audigy LS Digital Audio」と「Sound BLASTER Live! 24-bit」の項を新規追加した。


西暦2005年2月19日 “SEVEN BRIDGE”

 ライアーソフトの最新作、セブンブリッジを2日間でプレイ終了。

 ・・・何と勿体ない。

 これだけの舞台設定、これだけの登場人物を用意しておいて、この結末“だけ”というのはいかにも勿体ない。

 これだったらもっともっと話の作り様があったのではないだろうか?

 ・・・惜しい、あまりに惜しい。


 そういえばプレイ中鉄道がらみで色々思う事があったので余談を一つ。

 この作品の最重要要素の一つである機関車の「プレステ・ジョアン」だが、イラスト等を見る限りは固定台枠の6動軸構成(軸配列2F1)となっている。

 この軸配置で何も考えずに完全に通常の固定台枠としたら曲線通過もままならない(苦笑)から、恐らく先台車・従台車をそれぞれ第1・第6動軸と結合し、これらの動軸を先・従台車の回る方向と逆方向に振り出すように左右動させるクラウス・ヘルムホルツ台車としてあるか、それとも単純に第1・第6動軸に左右動を許容するゲルスドルフ式を採用しているかのいずれかだと思う。

 但し、第1−第2動軸間の軸距だけが長くされていて第1動軸は先台車に寄せてあるので、これはクラウス・ヘルムホルツ台車を採用している可能性が高いように思える。

 只、いずれにしても曲線通過時に軌条にかかる側圧が大きくなりがちなのは否めず、実際にこの軸配置で機関車を造ったとしたら入線可能な線区はかなり制限されるのではないだろうか?

 歴史上を見渡してみると、固定台枠で多動軸構成の機関車は実用上かなり問題があった事が知られており、史上最多動軸の固定台枠蒸気機関車(7動軸)として知られる旧ソビエト国鉄のAA20-01(軸配列1G2)やブルガリア国鉄の45/46形6動軸タンク機(軸配列はそれぞれFと1F2)などの6動軸以上を備える固定台枠式機関車はいずれも側圧過大で苦労したことが伝えられている。

 もっとも、アメリカのユニオンパシフィックが建造したクラス9000(軸配列2F1。余談だが軸配置2C1を「パシフィック」、2C2を「ハドソン」(更に余談だがあの札幌のソフトハウスの社名はこれに由来する)と呼ぶように、この2F1は「ユニオンパシフィック」と呼ばれる)は88輛も量産されており、軌道条件さえ良好ならば6動軸機は実用になる事が知れる。

 それでもそのユニオンパシフィックでさえ、この後「チャレンジャー」(軸配列2CC2)そして「ビッグボーイ」(軸配列2DD2)と怪物じみた超巨大単式マレー式機関車を矢継ぎ早に大量生産してこのクラス9000を2線級に追いやってしまっているから、6動軸以上が必要な場合はやはり素直に関節式とした方が良いという事なのだろう。

 6動軸でこれという事は当然7動軸はもっとダメという事で、唯一の例となった先のAA20にはポイントの通過時にその過大な側圧でポイントを押し広げて脱線してしまうという悪癖があって、結局1輛を試作したに留まった(それも試験用として1960年まで残されていた由だが、その生涯の殆どの期間を休車状態で過ごしていたらしい)という話が残されている。

 多動軸の大型機関車をマトモに普通の線路上を走れる様にしようと思うと、結局先に記したようにマレー(Mallet)式やガーラット(Garratt)式、あるいはメイヤー(Meyer)式等の動軸を乗せる台枠を分割した関節式機関車とせざるを得ないのだが、この「プレステ・ジョアン」に関しては・・・・・・・・・・・・・・まぁ、あんなだし、これでも多分大丈夫なのだろう、きっと(苦笑)。


西暦2005年2月20日 “RADEON 9800 PRO”

 先日の財政危機の時に泣く泣く売り飛ばしたATi純正のRADEON 9800 PRO 128MBの代わりに、ここしばらくRADEON 9100化したRADEON 8500(LEではなく正規の8500搭載のGiga Byte製の分)をAT新1号機に挿して使っていた。

 正直な所DirectX 9対応のアプリケーション(ベンチマークは除く)など皆目手元に無いのでこれでも特に困っていなかった(強いて言えば、「式神の城EX」が重くなる位しか悪影響は無かった)のだが、サブであるAT新3号機でデュアルディスプレイが出来ないのはそれはそれで不便で、1号か3号のいずれかに新たにデュアルディスプレイ対応のグラフィックカードが(出来れば廉価で)手に入ればなぁ、などと思っていた。

 ま、世の中そんなに都合良く行く筈は無い訳で、財政的に超低空飛行で生活している現状でグラフィックカードに何万もの出費を許容出来よう筈もなく、「思っていた」だけに留めていたのだが、本日某ショップでジャンク市が開かれているのにたまたま出くわして、そこで見慣れた感じのグラフィックカードがジャンクとして売られているのを発見した。

 そう、RADEON 9800 PRO 128MB(メーカー不詳だが、レイアウトや構成は純正に準じる)がそこにあったのだ。

 実はこの店のジャンク市は、時々FETが火を噴いた跡があるようなカード(それも大概上位機種)や、ヒートシンクの扱いの関係でコア欠けを起こしたカードなんかを平気で混ぜてあったりする(そもそもそれがジャンクというモノなんだが)ので全く油断がならないのだが、果たしてそのカードは空冷ファンがもげていた(苦笑)。

 只、基板面を眺める限りはそれ以外に致命的なダメージの形跡は見あたらず、ここに並んでいる中ではコンディションが良好な部類に入ると感じられた。

 このカードは\2,500でかなり微妙な線だったが、色々悩んだり勘案したりした末に購入に踏み切った。

 カードさえ生きていればファンを交換すれば何とかなる訳で、そうであれば中古が未だに\17,000前後で売られているRADEON 9800 PRO 128MBがこの値段で買えるというのは非常に有り難いという事になる。

 無論、死んでいたらそれまでだが(苦笑)。


 帰宅後、早速死んだファンの残骸を除去し、それなりに大型のファン(元はCPU用)をヒートシンクにねじ止めしてAT新1号機に装着。

 只、隣のPCI-Xスロットに干渉する為、SATA2RAID-PCIXは外してオンボードのSiI3114で代用することにした。

 この関係で、SATAコントローラにぶら下がっていたDVD Multiドライブと2nd HDDは性能が低下することになったが、これは取りあえずの暫定的な処置という事で目をつぶる事にした。

 それにしても、何故TYANはAGPスロットをもう一段上げてPCI-Xスロットとの間に空間を確保しなかったのだろうか?

 まぁ、設計上(特にCPU・メモリ周りで)色々制約があったのだとは思うが、お陰で要2スロット分の空間のグラフィックカードが買えない/買いにくい事は、Thunder K8Wの数少ない不満の一つである。

 で、肝心のカードの動作だが、各種ベンチマークでも画面が崩れるなどのトラブルを出す事もなく、見事完走と相成った(喜)。

 まずはめでたい限りである。


西暦2005年2月22日 “ダウン”

 腹を壊してダウン。

 ・・・つくづく、ロクな事が無い。


 19日の項で記した固定台枠で多動軸の機関車の件で追加を一つ。

 前回は割と否定的に記した固定台枠多動軸だが、条件さえクリア出来れば関節式より短い車体(山岳線、特にスイッチバックがあるような場合には機関車の全長は短いに越したことはない)で大きな牽引力を確保出来るため、前回記したブルガリアの他に、オーストリアやインドネシア等で急勾配区間用として愛用されていた。

 無論、どれもほぼ例外なく一部の動輪のフランジを削り落とし、それ以外の幾つかの動軸について何らかの方法で左右動を許容する設計になっていたらしい(山岳線区には曲線がつきものなのでそうしないととても実用にならない)のだが、そうしてみると幾ら平坦線用とは言えユニオンパシフィックのクラス9000はその辺の問題をどうやって解決していたのだろうか?

 確かこのクラス9000は製造元のALCO(アルコ:American Locomotive)がイギリスからライセンスを得ていたグレスレー式弁装置(蒸気機関車の世界最高速度を達成したLNER(ロンドン北東鉄道:London North Eastern Railway)のA4“マラード”に搭載されていた事で知られ、また我が国の国鉄がALCOから輸入した8200形(後のC52形)や同社からライセンスを得て建造したC53形蒸気機関車でも採用されていた)を搭載する3気筒式であった筈なのだが、日本国鉄が経年の浅いC53を戦後すぐに全廃し、本家イギリスでさえ戦後搭載各車について普通の弁装置に改造せざるを得なかった程にメンテナンス面で気難しい所のあるこの弁装置を搭載し、しかもサイドロッドの質量の関係で高速運転時の振動等で非常に厳しい所がある6動軸構成(そのせいか主動輪となる第3動輪には、バランスがよいのが売り物の筈の3気筒機にあるまじき異様に巨大なカウンターウェイト(これは最早バランスウェイトではない)が装着されている)とくると、これで特に曲線通過機構が付加されていないとすれば正直実用になるとは思えない。

 そんなこんなでネット上でクラス9000の写真を漁ってみると、やはりというか主動輪(第3動輪)と第4動輪がフランジレスとなっていた。

 また、実車写真を見ているとこの9000もプレステ・ジョアンよろしく第1動軸と第2動軸の軸距が他の動軸間より広くなっているのだが、これは弁装置の支持架を取り付ける為にやむなくそうなっているもので、ここで気になってプレステ・ジョアンの側面図を見直してみると、果たしてこの9000と完全に同じ構成になっていることが判明した。

 つまり、以前書いたクラウス・ヘルムホルツ台車説は誤りであったという事になる。お詫びし訂正させていただく。

 それはそれとしても、プレステ・ジョアンがクラス9000と各ロッドの分割までそっくり同一構成である(ご丁寧にも先輪がプレート車輪である事や、ブレーキロッドの配置まで同一である)事が判明したのは収穫であった。

 ついでなので客車の元ネタも書いておくと、1等車が2人個室ということで恐らくワゴン・リのLx20(そう、日本にやってきたオリエント急行のアレだ)、食堂車とサロン車もワゴン・リのそれ(特にサロン車の内装は有名なフランスの青列車(ル・トラン・ブルー)で使われていた、アール・ヌーボー様式の内装を持つタイプのそれが元であることは明白である)、とここまでは割と簡単に判別が付くのだが、問題は2等車である。

 屋根にグローブ式ベンチレーターがずらりと載っていて、比較的幅の広い2段式側窓(1重)とオープンデッキ、そして弓形イコライザー台車、と特徴をずらずら並べてみると私の知識の範囲では、一致するプロトタイプがどうしても思いつかない。

 確か戦前の中国のどこだかの鉄道にこれに似た様な感じの客車があった様な気もするが、確かそっちは窓が防寒用に2重構造でしかもデッキはクローズド構造(そういえばプレステ・ジョアンはシベリア鉄道を走るのだったよな(滝汗))で、思いつくプロトタイプはどれもどこかが微妙に違うという状況である(何方か正解をご存じの方はご教示下さい)。

 で、ここまで書いたからにはあの車輛についても取り上げない訳には行かないだろう。

 少々ネタバレになるが片手落ちは嫌なので、以下に敢えて記しておく(ネタバレが嫌な人は読まない様に)。


















 問題の「ムジャーヒディーン」のデザイン上の基本は恐らくドイツの流線型機関車である。

 これは、スカートの裾を丸め込んでしまう様式や、スカート側面に羽目板状のルーバーを設ける意匠(これらは01・03・05・06・61・19 1001等といった一連のドイツ国鉄流線型機関車群に見られる特徴的造形である)等からの判断だが、作中でのドイツの動向を勘案するとオスマントルコにドイツが技術供与した可能性は充分考えられるのではないかと思う。

 上半身というか上回りのデザインについては何も言うことはない(苦笑)が、こちらも6動軸(但し軸配列2F2で動軸は等間隔になっているから、恐らくこちらはプレステ・ジョアンとは駆動系の構造がかなり違う筈である)であるあたり、動軸の構成について何か別に特別な理由があるのかも知れない。

 ま、動力源が動力源なので何がどうなっていても不思議はないのだが(苦笑)。


 そんな訳で、ここまで長々とネタを引っ張ったセブンブリッジがらみの与太話はこれでひとまず終了である。


西暦2005年2月27日 “ダウン再び”

 また風邪を引く。

 しかも前回と症状が違う(汗)。

 これはどうも最近の食生活の悪化で、抵抗力が著しく低下しているのが原因の様だが、正直かなりきつい。

 ・・・やはりきちんと食事を摂らないと駄目かなぁ(溜息)。


西暦2005年2月28日 “さらば、あさかぜ”

 TVニュースを観ているとダイヤ改正前最後の下り“あさかぜ”の東京駅発車の光景が映っていた。

 ・・・そういや、今度のダイヤ改正で“あさかぜ”と“さくら”が廃止になるのだっけ。

 70年代末のブルートレインブームを生々しく記憶している私には、どうしても今回の決定を信じがたい部分があるのだが、関西圏にいた頃に見ていた“彗星・あかつき”用14系15形客車(国鉄最後の新規設計寝台客車シリーズ)の老朽化の深刻さとその乗車状況の悪さを思うと、今回の決定も致し方ない、と判断する部分も同時に存在していて、正直感情的にはかなり複雑である。

 私が物心付いた頃、寝台特急の代表格といえばそれはまず間違いなく博多行“あさかぜ”だった。

 あの優雅な20系客車、それもナロネ20(A個室寝台)・21(Aプルマン式開放寝台)・22(A個室・開放室合造寝台)・ナロ20(グリーン車)、それにナシ20(食堂車)を連ねて編成の半分以上が優等車という、今のトワイライトエクスプレスやカシオペア並みかそれ以上の豪華編成(単純に同列で比較してはいけない。建造当時の一般的な日本人が日常どの様な生活を送っていたかを考えれば、この列車がどれ程突出した存在であったかが理解出来よう。もっとも、単純に考えてもこれが相当な列車であった事は間違いないのだが・・・)で運行されていた博多“あさかぜ”は、本当に“走るホテル”というその二つ名に相応しい列車であったが、その老朽化置き換え用としてブルトレブームの真っ只中に新製投入された24系25形が、かなりの手間をかけて改造工事を施されたとは言え廃止の今日まで現役でいた(それも満身創痍の有様で)、という悲しい事実が示す通り、“あさかぜ”を筆頭とする東海道・山陽本線系寝台特急群は分割民営化後急激に高速化のペースを速めた新幹線や、激しい割引競争を仕掛ける航空機の前にはあまりにも無力であった。

 無論そこには 観光地としての九州の、特に別府や宮崎といった日豊本線系の観光地の地位の低下もあるが、最盛期には“富士”・“はやぶさ”・“みずほ”・“さくら”・“あさかぜ”・“瀬戸”・“出雲”そして“安芸”と8つの名前を持った列車が東京口を出入りしていたものが、まず呉線電化前の急行列車以来の長い歴史を持つ“安芸”がひっそりと姿を消し(まぁ、これは解らないでもない)、“瀬戸”が“出雲”1往復と共に電車化され、“みずほ”が消え、遂に今日、ブルトレの象徴であった“あさかぜ”と“さくら”が共にその最後の旅路へと走り去ってしまった。

 今後、東海道線東京口に残る“青列車”は“出雲”・“富士”・“はやぶさ”・“銀河”(急行だが2段化された24系を使用している)の4本のみ、大阪・新大阪発着の対九州寝台特急を加えても“彗星”・“あかつき”・“なは”の3本が加わるに過ぎず、しかもその内“富士”・“はやぶさ”と“彗星”・“あかつき”は東海道・山陽線内で併結運転というのであるから、何をか況やであろう。


 ・・・しかし、それにしてもホームは“葬儀屋”で大盛況だな(苦笑)。


西暦2005年3月1日 “初回印税”

 昨年暮れに出た処女単行本の初回印税が予告無く振り込まれていた。

 諸事情で私の取り分は本当に僅かだが、この厳しい財政下では正に旱天の慈雨といった所である。

 ・・・まぁ、もうちょっとあれば随分楽になるんだが(苦笑)。


 バイトを変わってからの約2ヶ月、超緊縮財政が続いており、正直何か別の副業を持つかそれとも関東圏撤退でもしないとマズい状況に近づきつつあるのは事実で、色々検討はしているのだが、現状では打つ手無しである。

 ・・・さて、これは本当にどうしたものかねぇ・・・。


西暦2005年3月3日 “訂正”

 岡大鉄研OB(そういや、鉄研潰れたそうですな)の先輩であるやくも少年氏よりこの日記の2/28分の事実誤認についてにご指摘のメールが届く。

 ・・・確かに、最盛期には“いなば”と“紀伊”が東京口を出入りしてて、寝台特急としての“安芸”は新大阪始発だった(汗)。

 “いなば”は指定券入手が非常に大変だった“出雲”の補完列車の性格が強く、ネームバリューの問題もあってか真っ先に“出雲”に統合されて姿を消し、“紀伊”は国鉄分割民営化前に(恐らくはその乗車効率の悪さと、JR東海の境界駅である新宮を越えてJR西日本管内の紀伊勝浦まで入り込む様になる事が嫌われて)廃止となっている。

 ついでに、ご指摘いただいた通りブルトレ“安芸”は急行“音戸”(これも古くからある列車であった)格上げ列車で、それに先立つ客車寝台急行の“安芸”(A寝台車2輛と食堂車を含み、残りは基本・付属編成共に10系のB寝台車という、下手な特急より豪華な急行列車だった)は呉線電化時にルート変更(呉線経由を山陽線経由に変更)の上で延長して下関“あさかぜ”へ格上げされていた(つまり、今回廃止の“あさかぜ”は列車ダイヤ変遷史の観点から言えばあの“動くホテル”と讃えられた“あさかぜ”ではない)のだった(汗)。

 もう一つ書くと、呉線電化からブルトレ“安芸”設定(1975年3月の新幹線博多開業時)までの間の空白期間には“安芸”の名は大阪−三原間を結んだ“とも”を呉まで延長した153系電車急行に付けられていた。

 そんな訳で事実誤認をお詫びし訂正いたします(謝)。

 それと、ご指摘下さったやくも少年氏には感謝を。


 ネタを引っ張ったのでついでにもう一つ。

 東海道・山陽線を走る“青列車”についてだが、実はもう一つあるといえばある。

 何かと言えば大阪−函館間を走破する“日本海”が、大阪−山科間は東海道線上を走行するからだ(苦笑)。

 恐らく、この列車のルート全区間に新幹線が走る事は当分は(下手をすると永遠に)ないだろうから、“青列車”として東海道線上で最後まで存続するのは実はこの“日本海”と“銀河”なのではないかと思う。

 まぁ、そうなる前に“サンライズ”用285系の交直流バージョン(床下がギチギチに詰まっているモハネ285だが、ロビーとかを潰せば交直機器搭載は不可能ではない。寧ろ問題は重くなり過ぎる事だろうか)とか客車バージョン(電源車さえ対応する物を用意できれば、今の285系のサハネでもそのまま客車として運用する事が可能なシステムになっている事は、確か285系登場時に“とれいん”誌上でのインタビューで開発担当者の方が明言していた筈である。事実機器構成を見てもそれは明らかで、285系開発の時点でJR西日本が今後の寝台列車のあり方についてかなり突っ込んだ検討を行っていた事が伺える)を建造して更新、というパターンもあり得るのだが(苦笑)。


西暦2005年3月6日 “2型57号”

 2型57号、予定より少し遅れて竣工。

 ひな祭りに間に合わせるつもりだったのだが、体調不良やら何やらでここまでずれ込んだ。

 主な変更点は「PC-9800シリーズ遍歴」各ページの追補訂正と注釈の新設、「PC/AT互換マザーボードとの邂逅」、「ストレージコントローラ 雑感」の幾つかのページへの注釈追加と追補訂正、「音の源へ」の各ページの追補訂正、「井原鉄道IRT355の印象」の写真構成の変更と追補訂正、「岡山電気軌道1994」及び「京阪電鉄野江駅にて」の文章追補訂正、など。

 注釈については残るページも今後順に手を入れて行く予定だが、取りあえず注釈の必要なページを全て修正した「PC-9800シリーズ遍歴」の手間のかかり具合を見ると、他の項については当分は混在のままとなりそうである(汗)。


西暦2005年3月10日 “98分解”

 PC-9821RvII/N20を分解して再セッティング。

 前回ルーフカバーを外した時に、度重なる改修で配線が空恐ろしい事になっていたのが気になっていたので行ったのだが、これで良く動いていたものである(苦笑)。

 元々RvIIはかなりぎりぎりの設計の筐体(注1)で、電源の容量増大に伴う大型化さえ許されなかった(注2)という、今にして思えば無茶苦茶な代物なのだが、そのRvIIに奥行きの長いSP420-RP(注3)やPX-R820Ti+PX-20TSi(注4)を突っ込んでしまっているウチのマシンはかなり難がある(注5)という事になる。

 そんな訳で一旦マザーボードを外す所まで分解し、清掃を行ってから慎重に配線の取り回しを検討しつつ再組み立て。

 何故かCD-ROMとCD-Rが別のコントローラに接続されていて50ピンケーブルが2本使用されていた(注6)ので、両方ともAIC-7860に接続し直し、CHANPON3とHDDを結ぶLVDケーブル共々極力空気の流れを阻害しないように引き回して取り付けたが、HDDはともかくCD-R/CD-ROMドライブは電源の事も考えて外付けに変更した方が良いかも知れない。

 ちなみに電源のケーブル群もかなり注意して取り回しを行ったが、やはりこの電源はRvIIの筐体には大き過ぎるかも知れない(苦笑)。

 RvIIにSSI-EPS12V電源を突っ込んであるのは、一つにはAT新1号機の電源にトラブルが発生した際の戦略予備という目的がある為だが、もう一つ前述の通りCD-R書き込みの動作安定という目的もあって、CD-Rを外付けに出来ればその安定動作の為にここまで大容量の電源を積む必要も無くなる訳で、その点は再検討を要するかも知れない。

 まぁ、この辺の問題はAT新3号機のSP401-RAと入れ換えれば解決する話なのだが、そうなると録画用に常時稼働中のAT新3号機が常時爆音をまき散らすようになる為、これも良い話では無い。

 本当は、星野金属の外付け電源がベストなのだと思うが、困った事にこのRvIIに関しては突き出したファンの関係で無加工での外付け電源使用が不可能となっており、中々良い解決策が無い。

 さしあたり当面は現状維持という事になりそうである。


(注1):Xv13/W16・Xv20/W30・Rv20/N20と同じフレームやルーフカバーを流用しつつ内部構造は大幅に変更してあり、奥行きほぼ全長*全幅分のCPUライザーボードが挿し込まれている関係で、FDDベイ直下のHDDマウントスペースすら廃止されている。

(注2):故に冷却ファンを内蔵し切れず、背面に突き出す事で、どうにか必要な内部容積を確保してある。

(注3):420W SSI-EPS12V電源。リタンダントファン搭載で普通の420W級電源と比べてさえ長い。

(注4):プレクのSCSIドライブは総じて奥行きが長い部類に入る。

(注5):ちなみにSP420-RPは電源としての性能はかなり優秀だが、動作音の点では前作SP401-RAとは比較にならない位悪く、爆音電源とまで評されている。但し、それにしてもここ暫くのこのRvIIの動作音が大きかったのは確かで、冷却不足で強制的に冷却ファンの回転数が上がっていた可能性がある。

(注6):CHANPON3-PCIとオンボードのAIC-7860にそれぞれ接続されていたが、理由は不明。あるいは、OSインストール時にDOS上でCD-ROMを読むのにCHANPON3の方が便利(PLEXTORの98用DOSドライバは55互換BIOS依存で、ROMを抜いたAIC-7860を認識しない)で、臨時につないだまま戻すのを忘れていた可能性がある。



西暦2005年3月11日 “PC-9821Ra266/W30R”

 お亡くなりになったPC-9821Ra300/M40の代機を色々検討していたのだが、結局PC-9821Ra266/W30Rを\4,200(税込)にて購入。

 最近見かけるRa40とかRa43とかの値段(注1)に慣れていると何やら異様に安く感じたのだが、店員氏に付属品一切無しの委託品と聞いて(注2)納得した(苦笑)。

 実の所、Ra266は基本的にCoppermineコア以降のCPU搭載不可という仕様(注3)なので最悪、Ra300の死んだマザボからROMチップを剥がして流用する事も検討していた(注4)のだが、購入して帰宅後部屋で動作チェックを色々行ってみたところ、この機体はCoppermineコアでもOKな最終期ロット品であるらしい事が判明した。

 つまり、Ra300/M40の装備品が完全流用可能という事で、これは嬉しい誤算であった。

 ちなみに今回秋葉原の店を色々巡回して98関連のパーツの在庫状況とか値段とかを確認してみたのだが、総じて値段が上昇傾向にあり、しかも取り扱い店舗数も昔に比べてかなり減っている(注5)ので、今後を考えるとかなり厳しい感じである。


(注1):中古で1.5万〜3万程度。まぁ、店によってはRa333に5万以上付けている所もあったが。

(注2):(安すぎて)「倉庫代にもなりやしない」とは同氏の弁である。ちなみに、話を聞くと最近は官公庁や工場・大学などを中心に、これまで倉庫で何年も腐っていた98関係のパーツや本体がコンスタントに売れている由で、何と8インチFDDにまで需要が結構あるそうである。しかも、その大半は今回の筆者と同様に「これまで持っていた機体が故障したので代品を求めて」購入しているそうで、機体の寿命問題が深刻になりつつある様だ。

(注3):それでも2.0V版のPentium IIや533MHzまでのCeleron等は搭載可能なので、そのままでは事実上2.8V版Pentium IIしか積めないRvII26やRsII26、あるいはRaII23と比べればまだしも恵まれていると言える。

(注4):マザーボードはG8YKKZ(Ra266/W30R)とG8YKKW(Ra300/40)で、はっきり言ってROM(厳密には28F200あるいは28F400というFlashメモリなのでROMではない)の中身以外共通(調達時期の違いで部材が異なる部分もあるようだが)なのでROMを貼り替えればRa300相当として動作する可能性がかなり高い。まぁ、余りやりたくない作業ではあるが。

(注5):値段は高いが98関連商品の揃いが良かったFAST POINT3号店でさえ、去年11月で閉店して本店に統合されてしまっている。



西暦2005年3月18日 “ツケ払い”

 ここ暫くアルバイトが多忙で先月来の風邪引きが満足に治らないまま放置せざるを得なかったのが悪かったのか、3日続けてダウン。

 ・・・健康管理とか何とか言う以前に、これは根本的に危機的状況なんじゃないだろうか?

 医者行って診て貰って治療しても、その度に誰かに別の風邪を移される現状では、下手をすると4月になっても風邪が治らないという事になりかねない。

 根本的には恐らく金欠による栄養状態の悪化が原因だが、現状を鑑みるにそこを起点に悪循環のループが形成されているという構造面の問題の方が深刻である様にも思える。

 この種の問題の解決方法は幾つか考えられるが、最大の問題はそれらの解決方法が実効的な結果を得られる様になるまで私の体が持ち堪えられるのか、という事の様な気がする。


西暦2005年3月21日 “二個一”

 アレルギー性鼻炎の兆候が出てきて薬を飲まねばならなくなったので、かなりのパワーダウン。

 ・・・鼻水がほぼストップされるのは良いが、その代償に体力を半分近く削り取るというのは如何なものか(汗)。


 どうも挙動に問題がある、という事でAT新1号機の拡張スロット構成を元に戻す事にして、その最大の障害となるRADEON9800PROの後付大型ファンと、オリジナルのアルミ製ヒートシンク部分を取り外して、3Dコア部分の死亡が確認された(ベンチで特定の3D描画命令が発行された際に必ず暴走する)為に廃棄処分としたGLADIAC 525のファンを再利用する事にして取り付け。

 この時初めて知ったのだが、R350はRV350系がそうである様な単純なチップ剥き出し構造ではなく、その外周部をコアとほぼ同じ厚さの金属フレームで取り囲んで保護してあるという、中々に凝った造りになっている事が判明した。

 つまり、この構造であれば上に乗ったクーラーのヒートシンクがシーソー状に動いてもチップ角のコア欠けは避けられるという事で、放熱性と耐久性の両立を図るという点でこれは良く考えられた設計である。

 以前買ってみたRV350系カードがお亡くなりになったのと同じジャンク市で、押し寄せる沢山の客の手荒い扱いに耐えられた秘密はどうやらこれであった様だ。

 熱暴走による死亡や電気的な素子破壊以上に深刻な問題であったコア欠けを殆ど心配しなくて良い(無論丁寧に扱うに越した事はないし、また常にそうすべきでもあるが)というのは非常に有り難い事で、これでこの系列の中古やジャンクを探す際の心配事が1つ減った訳である(苦笑)。

 もっとも、逆に言えば安いRV3x0系はこの問題をはらんでいるという事でもあって、いよいよ買い辛くなった事であった(苦笑)。


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